備忘録ですよ。

20代。留学中にブログを始め、思いついたように小さな想いをつぶやきます。

留学で一番言ってはいけないこと

留学で一番言ってはいけないこと。

 

それは、

 

「もし日本語だったら」

 

でも、一番考えてしまうことでもある。

 

明日に控えた中間テストのために勉強していたのですが、なかなか理解できないことがたくさんあります。

ノートを読んでも流し読みではわかりません。

立ち止まって、ゆっくり読み返して、頭で内容を組み立ててやっと理解できます。

 

今まで英語と真剣にぶつかってこなかったので、当然と言えば当然なのですが英語で学ぶことは言うほど簡単なことではありません。

(そういえば最近英語の壁にぶち当たったので、それについてはまた書きますね)

 

大量のリーディング課題も、ペーパーも、全部全部私がこなすには現地の学生の何倍もの時間がかかります。

図書館にこもり、電子辞書片手に数時間闘ってやっと読み終えたリーディング課題を、現地の学生がカフェでコーヒー片手に涼しい顔で読んでいる姿を目にすると悲しくもなります。

でも、そんな環境でも自分が努力がすればきちんと渡り歩けること、その楽しさと充実さもあります。

 

しかし、テスト前になるといつも「これが日本語だったら」とどうしても頭をよぎってしまうのです。

きっと日本語だったらすごく楽。

すぐ理解できる。

考えたことをすぐ言葉にできる。

ノートだって綺麗に取れる。

記述で言葉が浮かばなくて泣きそうになることもない。

 

でも、本当にそうでしょうか。

 

確かに、日本語だったら圧倒的に理解するのに時間はかかりませんし、リーディングだってすぐ読めてしまうでしょう。

でも、日本でのテスト前を考えた時、それでもやっぱり私は苦労していました。

特に経済学という慣れない分野を学んでいたので、教科書に並ぶ文字列と図は私にとってはチンプンカンプン。

日本語なのに、日本語じゃない!

そう思ったことが何度もあります。

 

だから、きっと言語なんて関係ない。

英語でわからないことは日本語でもわからない。

 

大事なのは、心だと思うのです。

 

幸いにも、前学期では良い成績を残すことが出来ました。

 

その理由は、日本語だとあきらめてしまったり投げやりになる部分を、英語だと必死に理解しよう、ついていこうと食らいついていく姿勢があったからです。

 

英語が理由で諦めたくなかった。

 

大変なときこそ、人は頑張れるのかもしれません。

 

 

そう分かってはいても、日本語だったらめちゃくちゃ楽なんだろうなあとやっぱり思ってしまう。

 

理解はしているのに、テストで結果が出せなかったりアウトプットがうまくいかないとひたすらに悔しい気持ちになります。

「もし日本語だったら」、言語能力によって成績やコミュニケーションが左右されることはないでしょう。

でも、そんなことを言っても、ここはアメリカ。日本語を話しにきた訳ではありません。

 

そこで

 

マインド変えたらいいんじゃない?とふと今思い立ちました。

 

今までの私「もしこれが日本語だったらなあ…」

         ↓

これからの私「もしもっと英語が出来たら」

 

どうでしょう!?

 

ちょっと前向きになりましたよね!

今まではただ今の状況を嘆くだけでまるで生産性のない話をしていて、

これからはもっとその次のステップに向けて、踏み出すような思考になろうと思います。

 

正直、ずっとこの状況を嘆いていました。

(アメリカまで来て何やってんだ、って感じです。本当に。はい。ごもっとも。)

 

でも嘆いていても状況は全く変わらなかったので、もう嘆くのはおさらば!!!

 

次のステップへと行きます。

 

もう嘆かないように

もう諦めないように

 

これからまた、勉強に戻ります。

「もっと英語が出来たら」

その悔しさを忘れずに。

 

 

残酷なSNS

SNSって時に残酷だと思いませんか。

 

一度スマホの画面から小さな四角いアプリを起ち上げると、楽しそうに、充実している様子が一面に並んでいます。

 

最近はスナップチャットやインスタグラムの動画機能により、今まで以上にリアルに、そのキラキラした様子が伝わってきます。

 

もちろん、充実した、楽しいことばかりだけでなくて悩んでいること、つらいこともSNSで共有したりします。

 

でも、やっぱり何だかキラキラしている姿が時に眩しすぎて、鋭く心を突き刺すのです。

 

そして、先程私の心は突き刺されました。(笑)

 

来週(というか今週?)に中間テストが2個あるため、遊ぶのを我慢してテスト勉強をしている時。

時間を確認するためにスマホに触れると、飲み会で潰れた友人と写真が送られてきていました。

インスタグラムを開くと楽しそうに飲み会をする動画が。

 

…。

 

う、うらやましい

 

めちゃくちゃうらやましい!!!

 

私だって飲み会行きたかったな、そんな風にむくれていると同時に、どうしようもない虚無感に襲われました。

 

皆遊んでいるのに、なんで私は勉強しているんだろう。

 

ちっぽけな感情だけれど、なかなか勉強に集中できないでいた私のやる気を削ぐには十分でした。

それから勉強を放り投げ、SNSの渦にずぼっと全身投げ込んでしまったのです。

 

そして、今感じるのはどうしようもない後悔と焦り。

人間、どうしてこう現実逃避してしまうんでしょうか…。(まだまだ勉強終わっていない)

 

SNSって、人と人との距離を近づけ、時間も空間も超えて共有することが出来る面白いものだと思います。

一方で、SNSにすごく翻弄されている自分がいます。

見なければいい、そもそもSNSを始めなければいい、様々な考えがあると思いますがそれが出来ない時点で私はきっと、SNSの掌に転がされているのかもしれません。

 

SNSでシェアされる友人たちの一つ一つの投稿に翻弄され、惑わされ、感情が乱れます。

 

そして、感じることはSNSでは頑張る人の姿がなかなかお目にかかれないことです。Facebookなどでは自身の活動を報告する方が多いですが、日常的ではありません。

 

日々、皆どこかでずっと頑張っているのに、その姿がSNSのキラキラの中ではうまく見つけることが出来ないのです。

 

なんだか不思議だなあ。

 

ある意味、SNSはとても創られた世界。

でも、その中に温もりのあるものを見つけるととても安心し、同時にエネルギーももらえます。

 

私もそういう存在になれたらなあ。

なんだかふと、SNSに翻弄される自分を客観的に見ながら、そんなことを考えたのでした。

 

さて、勉強しよっと。

 

日本の価値観からの解放の道しるべ

留学中の楽しみの一つは、異なるバックグランドを持つ友人たちと会話ができること。

 

今日、授業で仲良くなった友人の一人とご飯に行ってきました。

 

腕の太さほどある巨大なブリトーにかぶりつきながら、下らない話から真面目な話まで、気が付いたら3時間近く話し込んでいました。

(巨大なブリトーはきちんと2人でシェアしたので、昨日の決意が揺らいだ訳じゃないですよ!)

 

そこで、印象的だった話。

 

人生における価値観についてです。

 

職業や家族のことなども関係なく、どんな考えで人生を歩んでいきたいのか、そう聞かれました。

 

私は日々考えていることを淡々と述べたのですが、彼はしばらく考えこんでから

「どんな小さなことも全てを楽しんで、愛したい。そして人と人との繋がりを大切に、あたたかい関係性の中歩んでいきたい」

と言いました。

 

彼は毎日ご飯を食べること、自転車に乗ること、着替えること、遅刻もしてしまうこと、日常のありふれている小さな小さな出来事も全部愛していきたい、と続けます。

 

だって、それが人生だもの。

その積み重ねが人生だから、せっかく生きているのならその全てを愛して楽しみたいんだ。

 

そう、どこか決意もこめた、でも光を携えた瞳で語りました。

 

彼自身、あまり裕福ではない家庭で育ち現在も政府からの奨学金で通い、苦労してきた背景があります。さらに、彼は学内インターンシップをやりながら今学期20単位以上履修し(ちなみに私は12単位(笑)20単位も取っている学生は聞いたことがありません)かなり忙しい生活を送っています。

しかし、その全てをとても生き生きと、楽しそうにこなしているのです。

そこには大変さを微塵も感じさせません。

 

どの授業も楽しい、大変だけど学びが大きいしワクワクするからやめられない、そう語る彼は本当に自分の人生を生き、謳歌しているのだと感じます。

 

そんな彼も現在4年生であり、将来のことが気になるようで、卒業後どうするのか聞いてみました。

 

現在職を探し中らしいのですが、自分の好きなgeography(地理)に関する職が良い、と再びキラキラした瞳で語ってくれました。(彼の専攻はgeographyなので)

 

大学中に自分の学びたいことを目一杯学び、進路もじっくり決めていく。

 

そんなシンプルな生き方が純粋に素敵だと思うと同時に、自分を恥じました。

 

現在大学3年で、同期は就職活動をスタートさせている時期です。

思えば、日本での学生生活は何だかんだ無意識のうちに就活を意識してしまっていた気がします。そして、学びたいことを学ぶというよりかはどれだけ楽をして単位を取るか、そのことだけに注力していました。

 

留学中は、就職活動のことなど忘れて学びたいことをひたすら学んでいるのですが、それでもふと、これでは就活で不利になるんじゃないか、もっと就活で話せるようなことをしないといけないんじゃないか、そんな疑念に襲われるのです。

 

そんな感情の板挟みになり、結局好きで学んでいることに集中できなくなってしまう時期もありました。

 

しかし、人生における価値観を大切に、のびのびと学び、将来を見据えている彼の姿に自分がちっぽけで、がちがちに縛られていたことに気が付きました。

 

もっとシンプルに考えて良いんだ。

だって私の人生だもの。

 

そんな風に、今までパンパンに膨れ上がっていた自分に対する疑念がしぼんでいくのを感じました。

 

でも、やっぱりどこかで日本の価値観(就活、楽単…)が根強く居座っています。ずっとずっと日本で過ごしてきた私がこの短期間の留学で完全にマインドを変えることは簡単ではありません。

 

それでも、日本にいたら知ることの出来ない価値観を友人から聞くことが出来、感謝の気持ちと新しい道に少しワクワクします。

 

自分に素直に、生きたいですね。

ジャンキーフード大国での食欲のケア

皆さんはついついたくさん食べて、後悔してしまった経験はありませんか?

 

美味しいもの、好きなものを前にするとたとえお腹がいっぱいでも、カロリーが高いとわかっていても、伸ばす手を止められませんよね。

 

まさに最近の私。

 

食欲が止まらないのです。

 

もともと食べることが大好きで、四六時中食べ物のことを考えています。

インスタグラムではたくさんのデリスタグラマーと呼ばれる食べ物専門ノインスタグラマーたちを大量にフォローし、美味しそうな写真が常に並んでいます。

 

何だかおデブまっしぐらな人みたいですが、そんな私も人生で一度だけ本気のダイエットをしたことがあり、食には気を使っています。

半年かけ、8~10キロほど減量し今もその体重をキープしています。

ダイエットといっても、今まで全く食に気を使っていなかったので、栄養バランスを考え、間食を減らし、毎日筋トレをしていたらいつの間にか健康的な体になった、という感じです。

 

ある程度食には気を付けていたのですが、最近アメリカという油・砂糖・炭水化物大国にいていとも簡単に意志が溶けていってしまっております…。

 

今日も朝昼と普通に食べ、途中でArtのパフォーマンスを鑑賞した際に大量のクラッカー、チーズ、スナック、ジュースをつまみ、夜ごはんは軽くするぞ!と意志を固めたのに大好きなチーズケサディーヤとチキンを前に完食してしまいました。

 

ちなみに、ケサディーヤとはトルティーヤにチーズやチキンなど様々な具材を入れ、焼き上げたメキシコ料理です。日本ではなかなか見ないですが(私もアメリカで初めて食べました)、メキシコからの移民が多いカリフォルニアではよく見るファストフードです。

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(写真見てたらまた食べたくなってきた…。さっき食べたばっかりなのに…。)

 

見てお分かりの通り、なかなかジャンキー。

カロリーは具材にもよりますが1つ300キロカロリー前後。(ビーフとチーズケサディーヤだと600キロカロリーくらいある場合も…!)

 

お茶碗一杯分のご飯よりも高いですね。

 

アメリカに来た当初の頃は、これが食べきれませんでした。

それが、お腹がすでにいっぱいな状態でぺろっと食べれてしまったんです!

 

とっても美味しかったけれど、ものすごい罪悪感。

最近、食欲が止まらないのです。

 

夜ごはんを食べ終わった後も部屋でお菓子を食べてしまう。というよりむしろお菓子を食べないと落ち着かないくらい。

 

これはまずい。

 

私がダイエットをした時に実感したことは「食欲は精神と深く関係している」ということです。食欲は胃ではなく脳でコントロールされており、ストレスがあると食欲に異常をきたしやすいのです。

 

なので、ダイエットはストレスを取り除くこと、自分の心と向き合うことが最も大事だとされ、私自身も実行しました。

きちんと自分の心と向き合った結果、当時は甘いものをそれほど欲しいと思いませんでしたし、食をうまく自分でコントロールできていました。

 

それが最近、全く出来ないのです。

 

きっとどこかにストレスがある。

でも、食べることが楽しい。

 

そんな葛藤があります。

自分の体のことなので、自分が一番よくわかっていますが今一度自分の心と向き合って、緩急つけて食べられるようにしたいです。

 

今、自分の心の弱さを食べ物で埋めて間際らしているのかもしれない。

そう思うと、心をおざなりにしていたことを反省しています。

 

体に気を付けるには、まず心から。

心と身体は繋がっているとは言いますが、全くその通りだと思います。

 

もう一度、あのダイエットできちんと向き合ったように、心をケアしよう。

その想いを書き留めておきます。

映画『下妻物語』―これがザ・日本なの?

今日、以前も取り上げたPop Culture in Japanとう授業で映画『下妻物語』("Kamikaze Girls")を鑑賞しました。

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2004年の映画なので少し古いですが、あらすじはこんな感じ。

茨城県下妻市に住む竜ヶ崎桃子は、ロリータ・ファッションをこよなく愛する孤高の高校生である。もう一人の主人公・白百合イチゴは、レディース暴走族)の一員であり、桃子の父親の作ったベルサーチの偽物を買いに来たことをきっかけに、桃子の家に出入りするようになる。イチゴは、自分が所属する暴走族の総長が引退する時、代官山にいるらしい有名な伝説の刺繍家に「ありがとう」と入れてもらった特攻服を着たいと願い、資金を稼ぐために桃子を引き連れパチンコ屋に繰り出す。桃子は初めてのパチンコであったが、偶然連チャンし、易々と自分の服代とイチゴの刺繍のための資金を稼ぎ出す。イチゴは代官山に詳しい桃子を伴い伝説の刺繍家を探しに行くが、その刺繍家を見つけることはできず、イチゴは深く落ち込む。見かねた桃子は自分が刺繍を請け負う。不眠不休で刺繍をし、見事な刺繍入りの特攻服が仕上がった。その素晴らしさを見て、イチゴは感動を覚え、素直に感謝をする。その言葉を聞いて桃子は今までに感じたことのない不思議な感覚を覚え、これをきっかけに、二人の間に友情が芽生え始める。

引用:下妻物語 - Wikipedia

 

 私はこの映画を知らなかったのですが、先生曰く「日本をよく表している」映画とのことです。

 

一体どんな映画だろう。

 

何となく少し怖いような、でも映画はいつも新しい世界を見せてくれるのでワクワクして鑑賞し始めました。

 

感想としては。

 

映画として、純粋に一人一人に背景があり、コメディで笑える要素が盛りだくさんなのに心にじんわりくる温かさもあり、とても面白かったです。

 

ただ。

 

この映画に描かれている内容が「日本」を表していると外国人に思ってほしくない、と強く思いました。

 

登場人物が個性的すぎるのです。

 

ロリータファッションをこよなく愛し、孤独を好む桃子

暴走族に属し、荒っぽい言動を繰り返すイチゴ

元下っ端ヤクザでダメ親父

顔の長さの倍以上のリーゼントを振りかざす龍二

 

この映画に出てくる全ての登場人物の個性がとにかく強烈!

コメディ映画としては大変面白いですが、日本人として観ていてハラハラしてしまいました。

 

これは「普通」の日本じゃない

日本をこの映画で判断しないでほしい

 

そんな感情が、映画のストーリーに引き込まれていく中で渦巻いていたのです。

 

そして同時に思ったこと。

 

「普通の日本」ってなんだ?

 

ロリータを好む人はたくさんいるし、暴走族の方もいます。

彼らは、日本社会において多数派ではないかもしれませんが確実に存在しています。

 

じゃあ多数派はどんな人でしょうか?

 

主人公の年齢である高校生を考えると、きっときちんと毎日制服を着て、部活にも所属し、休日は友達と遊びに出かけたり、テスト前は勉強に苦しんだり。

 

でも、それって「普通」なんでしょうか?

 

きっとこの映画は、日本の「普通」概念に疑問をぶつけているのだと思います。

彼らのような人は存在するかもしれないし、しないかもしれません。

 

でも、皆がどこか感じている日本の「普通」であったり同質的な価値観に対するモヤモヤをこの登場人物たちが体現してくれている気がするのです。

 

やっぱり、この映画が日本だと思ってほしくはないけど(笑)、日本社会って海外みたらどこか歪んでいるのかも、そう思うきっかけとなりました。

 

海外にいる方が日本のことをたくさん考えます。不思議。でも楽しい。

優しいギターの音と、厳しい社会の変化

今学期からアコースティックギターのクラスに通い始め、今日2回目に参加してきました。

 

習うのはギターを教え始め35年、背中まである白髪を一つに束ねた、どこか昔のロックンロールを感じる優しい顔のおじいちゃん。

おじいちゃんと言いましたが、音楽に携わっている人はどういう訳か若くあり続ける人が多く、このおじいちゃんも例外ではありません。

 

生徒が来るのを待ちながら、ギターを感情の赴くままに奏でる姿は人生を謳歌しているようで、とても生き生きとしています。

 

そんなおじいちゃんと一緒に、早めに教室に着いた私は他の生徒が来るのを待っていました。

 

女の人が一人、重そうなギターを抱えて登場。

 

…。

 

本日の生徒は以上でした。

 

まさかの生徒2人におじいちゃんも戸惑いを隠せない様子。

(このクラスは単位になるわけでもなく、ただの趣味のものなので強制力はないのです)

 

そこで優しい顔のまま、20年前には毎学期30~40人以上の生徒を教えていたと語ってくれました。

 

それが、ここ数年になりギターを弾く人口がすっかり減ってしまった、と嘆くおじいちゃん。

 

無料で音楽が聴けるだけでなく、今ではスマホタブレットで簡単に楽器を演奏できてしまいます。

そんなこと一体誰が予想しただろう、そんな風におじいちゃんは続けます。

 

最近テクノロジーの発展などを考えていた私にとっては、とても気になる話題。

 

確かに楽器を弾けなくとも、持っていなくとも音楽に簡単に触れられます。でも、ギターを持っている友人を私はたくさん知っていますし、何より自分の手で楽器が弾けることとアプリで弾くことはあまりにも違いすぎる気がしたのです。

 

アプリで弾く=楽器を少し弾いてみたいけど、一からスタートさせるのは面倒な人

実際に楽器で弾く=アプリじゃ物足りない。自分で弾きたい人

 

と、全くターゲットが異なる気がするのです。むしろ、アプリの登場は今まで関心があったけど始められなかった人たちにとって、楽器を弾くハードルが低くなり、実際に楽器を弾くきっかけにもなり得るのではないでしょうか。

 

そして、おじいちゃんのギタークラスに通う生徒数が減った理由は、教えてもらわなくとも無料で、自分で学べる機会が増えたからではないでしょうか。

 

Youtubeを開けばギターの弾き方を丁寧に説明してくれる動画はたくさんあります。

分からないことがあれば、ググれば大抵のことは出てきます。

 

昔は対面で教えてもらうしかギターの上達の方法がありませんでしたが、現代はリソースが多様化し、かつそれが皆に開かれています。

つまり、様々な形の「おじいちゃん」が出現したのです。

 

私のようなギターを始めたい人(=消費者)にとっては嬉しいですが、おじいちゃん(=供給者)にとっては競争が激しくなり、渋い状況です。

 

なんだか、便利な時代って消費者である限り恩恵をまるっと受けられて最高ですが、供給者側になった瞬間話が変わります。

まだ学生の身分である私ですが、いつまでもこの状況に胡坐をかいてはいられない、そんな危機感を感じました。

 

とはいえ。

 

ギターを心から愛し、鼻歌をうたいながらギターを奏でるおじいちゃんの姿にそんな考えもちっぽけに思え、止まっていた手を動かし、ギターを弾き始めました。

 

教室に染みわたる、少し不器用なギターの音。

やっぱりこの音が好き。

テクノロジーの発展と忘却

現在、テクノロジーの発展に関する授業を履修しているのですが、そこで何だか不思議な感覚に襲われました。

 

今回の授業では社会・テクノロジーの発展の関係とそれに対する反応について学びました。

 

情報の伝達は「口語→書く→印刷→エレクトロニック」の順序で発達してきたそう。

昔の人は口伝えでしか知識や考えを残すことが出来なかったのに、今では一瞬にして情報・アイデアが世界中に拡散するなんて凄まじい変化ですよね。(ブログもその一種だ!)

 

そんな授業内容を聞きながら、「きっと昔の人は今の私たちの姿なんて想像もつかなかっただろうなあ。」とぼんやり。

 

そしてふと思ったのです。

 

あれ、私ももっと不便な時代にいたよね?

 

現役大学生、世間的にはデジタルネイティブ(インターネットやパソコンの中で育ってきた世代。1980年代以降生まれくらからをさすらしい)と言われている私ですが、幼いころに観ていた映画は全てDVDではなくビデオだったし、カセットテープだってたくさん持っていました。

初めて手にした携帯電話もガラケー

小学校の頃は電話を使うのに憧れて、テレフォンカードを大事に大事にランドセルに忍ばせ、ごくたまに使う公衆電話にわくわくしたのを覚えています。

家にあるテレビは画面よりも幅が分厚く、なかなかな存在感。

 

そんな環境でずっと育ってきました。

 

しかし、ふと気が付くといつの間にかガラケーからスマホに、分厚いテレビから薄型に、カセットからipodに、ビデオからDVDに移行していました。

 

それらの変化はライフスタイルを変えるほどの大きなものだったのに、本当に「気が付いたら」すべてが変わっていたのです。

 

スマホがない生活、パソコンがない生活、ネットがない生活なんて考えられません。

 

でも、今の生活が確立されたのはこのほんの数年間の話。

それなのに、その生活に依存していると思うとぞっとします。

 

発展することは便利にもなりますが、同時に何かを蝕むんじゃないか、そんな感覚に襲われたのです。

(昨日見た『もののけ姫』の影響かな、、、。(笑))

 

そして同時に、私たちはすぐに「忘れる」のだと感じました。

 

LINEがなかった時代に、どうコミュニケーションを取っていたかなんて日々思い出しません。

Youtubeがなかった時に、どうやって暇つぶしをしていたかなんて意識しません。

 

発展の怖いところは、私たちに「なにこれ超便利!」と最初の一瞬だけ思わせて、その後素知らぬ顔ですっと、私たちの生活に馴染んでいくことです。まるで昔からそこにいたように。

 

それは、柔軟な生活をしていく上で大切なことかもしれません。

でも、一方で忘れたくないことまで忘れてしまいそうな気がするのです。

 

カセットテープをびりびり引っ張って親を困らせたこと。

小さなテレビ画面にみんなで肩を寄せ合って観たこと。

CDを皆で貸し借りしたこと。

 

そんな経験があるから今があること。

 

次の発展は何だろう、とついつい急いでしまいますが、たまには今までの軌跡を振り返ってみるのも良いかもしれません。

 

こんな短時間で発展したことへの感動と、そして忘れたくない何かがそこにはひっそり輝いているはず。