備忘録ですよ。

20代。留学中にブログを始め、思いついたように小さな想いをつぶやきます。

多様性って?今直面している危機

今日Donation Walkというボランティアに参加してきました。

 

ここでは、家を一軒一軒回り、何か使っていない缶詰・パスタなどの食料がないか聞いて回り、集めて食料を必要としている人のために供給するというものです。

 

朝9時に集合し、どんな文言でいくのか、愛想の悪い人の場合にはどのように対処するかなどのロールプレイを繰り返ししてから、実際に訪問していくことになりました。

 

もうドッキドキ。

 

みんなみたいにスラスラ言えないし、ましてこちらは頼む側。

その頼む側がつっかえつっかえで大丈夫かな。

すごくドキドキしましたが、あきらめずに練習しようと思い挑戦し続けました。

そうすると、意外にもうまくいったのです!!!

 

ハッピー!!!

 

というか愛想の悪い人は全然いませんでした。

(土曜の朝だったので二日酔いっぽい人、パーティーの形跡がある家が多かったですが…)

 

ちょっとまた自信がつきました。

 

しかし今回の本題はこれではありません。

 

DOnation Walkでは2人ペアで行いました。

私は4年生の女の人と。

 

家を回っている間、彼女と様々な話をしました。

 

彼女の両親はメキシコ人であること。

ロサンゼルスで生まれ育ったこと。

第一言語スペイン語であること。

田舎よりも都市が好きなこと。(私のいるサンタバーバラはめちゃくちゃ田舎です)

 

そう話していく中で見えてきたことがあります。

 

それは「多様性」って何だろう、ということです。

 

彼女はロサンゼルスという人種的多様性に溢れている街で生まれ育ちました。

しかし、彼女はヒスパニックコミュニティでずっと暮らし、ほとんどスペイン語で日常も会話していたそう。そのコミュニティでは英語も話せない人もたくさんいて、でもそれでも生活に支障はないとのこと。

 

そして、彼女はそのコミュニティに戻りたがっていたのです。

 

サンタバーバラという土地はアジア人・ヒスパニックの多いカリフォルニアでは珍しく白人の多い街です。もちろんたくさんヒスパニックはいますが、アジア人もいるといっても中国人ばかり。カリフォルニアの中でもちょっと特殊なのです。

 

そんなサンタバーバラにいて、メキシコのバックグランドを持つ彼女はどうしても「アウトサイダー」という意識が芽生えるそうなのです。

そして、同じ人種ばかりだったあのコミュニティが懐かしいと。

 

その感覚には同意します。

私もやはり、白人が多い中でアジア人の顔を見るとほっとしてしまうのです。

そしてなぜか仲間意識が芽生える。そして友達になりやすく、結果的に固まってしまうのです。

これは私の留学でも気を付けている点ですが、気が付いたら友達になるのはアジア人ばかりだったり。

たとえアメリカで生まれ育ったアジア人でも、やはり習慣・考え方などが似ていたり、お互いの文化に対する興味があるのです。

だから話しかけるし、会話もはずむ。

 

そうやってコミュニティが形成され、どんどん排他的になってしまう。

 

彼女の話を聞いていて、カリフォルニアという多様性の象徴のような州においても、意識の上での多様性は確立されていないのだと実感しました。

 

そして、人種という壁を乗り越えることがいかに難しいことか。

 

私はカリフォルニアの多様性を受け入れ、そこから新しいものを生み出す姿勢に惹かれていました。

しかし、現実はそう甘くなかったようです。

 

確かに人種的に様々な人がいる。お互いの存在は尊重している。でも、あくまで本当に交わってはいないのです。

 

でも、ただの「尊重」だけでなく「同調」までする必要があるのか。

 

あれ。

 

同調する必要はないんじゃないのかな??

 

同調までしたら、完全に相手の文化に染まることになる。

それだと多様性が失われてしまう。アイデンティティがなくなってしまう。

 

私は今まで多様性を達成するためには、「同調」が必要なのかなと何となく考えていました。しかし、彼女の話を聞き、「同調」は絶対じゃないんだと気づいたのです。

 

ヒスパニックのコミュニティが大きくなり、きちんと確立されたのは彼らのアイデンティティがロサンゼルスという地において「尊重」されたから。

周りが理解したから。

 

これこそが、多様性の第一歩なのではないでしょうか。

 

彼女がサンタバーバラで不安に感じる理由は、この地できちんと自分の文化が尊重されているのか疑問だから。

でも、私は尊重されていると思います。

アジアに関しても、皆がアジア料理を食べ、言語にも触れ、私の文化も「尊重」してくれます。こちらに来て、日本人だからこの子は…など国が理由で批判されたことはありません。むしろ、国のバックグランドを理解した上で考えてくれます。

 

お互いの文化や国を理解し、尊重する。

 

シンプルだけどその資質がカリフォルニアにはあるんだなと。

 

さらに今日Uber(ウーバー)に乗った時。

 

ドライバーさんはイラン出身のアメリカ育ちの人でした。

 

彼は現在物議を醸している新大統領・トランプについてとても心配していました。

自国が攻撃されるのでは。第3次世界大戦になる。自分のアイデンティティが失われてしまう。

 

そんな風に話す彼に、アメリカが変化の道をたどっていること、そして長い間養ってきた「尊重」という文化が今危ぶまれていること。

 

そんな危機感を実感しました。

 

多様性。

 

それがあるからこそのアメリカのダイナミズム。

でも、これからどうなっていくんでしょうか。

 

英語が話せた。そして、その先へ

聞いて下さい。

今日とても嬉しいことがありました。

 

英語が話せたんです!!!

 

留学にいながら何言ってるんだ、とか思わないでください。

 

きちんと、議論が出来たのです。

 

今日、今学期から参加している団体での広報に関するミーティングがありました。

はじめは、いつもみたいに聞いているだけにならないように頑張ろう、気合をいれたもののまたついていけずにションボリしていました。

しかし、聞いていくうちにツッコミどころがありすぎると気付きまして。

 

私は、日本で広報活動の経験があります。

その経験からいって、彼らの広報に対する姿勢・戦略・現状分析の甘さに黙っていられなくなりました。

これはまずい。

 

そんな気持ちから気がついたら、もっとこうした方が良い、こういうやり方もあっても良いんじゃないのか、そんな提案をしていました。

そこから彼らと議論をし、新しい視点をありがとうと言われました。

 

めちゃくちゃうれしい。

顔がにやける。

 

自分の考えをきちんと話せて、何よりこのチームに少しでも貢献できてこの活動が広まる手助けになれたかな。

小さな一歩ですが、私の心にとってはとても大きかった。

 

そして、思いました。

 

自分の得意分野なら話せる。

 

そして今まで話せなかった理由は、自分にとって新しい分野ばかりだったから。

 

日本語だったら、あいまいに分かったふりして時々質問したり批判したりして、議論に参加している「風」を装うことが簡単でした。

しかし、英語になった瞬間そんな装いなんてできなくて。

だからついていけなくなっていたんだと。

 

つまり、英語の問題ではないのです。

 

よく言われるのは英語よりも中身。日本語で言えないことが英語で言える訳がない。英語はツールでしかないのだから、きちんと中身を磨くべきだと。

 

私もずっとその言葉を信じてきましたが、自分ごととして考えていませんでした。

 

思い返すと、日本語でも私は議論にコミットして主体的に動くことが苦手でした。

その度に心は小さく挫折しながらも、曖昧に、まるで参加しているかのように振る舞っていました。

 

でも、アメリカでは通じない。

 

その今まで甘えていたツケが、ここで表れた。

 

そう思うと、本当に自分の根本を見直そうと今までと意識が変わりました。

 

英語ももちろん大事だけど、

それ以上に私が伝える気持ち、本気で取り組む姿勢こそが大事。

 

そして、自分の話せる分野を増やすためにもインプットはし続ける必要がある。

 

もっとたくさんのことを吸収しなくちゃ。

 

さっきまでの嬉しい気持ちを押さえ、これからを見据えます。

食文化の違い

アメリカと日本。

たくさんの文化の違いがありますが、その一つが食文化。

 

今日友人とス―パーの今が旬の野菜リストを見ながら話をしていた時。

そこにはレタス、ケール、カリフラワー、バナナ、オレンジが。

 

どの野菜を皆よく食べるの?と聞いてみると、

カリフラワーは人気がなく、ケールはヘルシー・ビーガン・筋トレに精を出す人が食べがちで、バナナとか手軽で良いよねと。

 

さらに、トマトとかよりアボカドだし、玉ねぎ・ニンジンも日常的に食べるかなあ。

 

そんな風に友人たちが話す姿に、私アメリカの食文化知らない!となりました。

 

こちらに来て感じるのは、スーパーに行ってもおいてある野菜・果物の種類がとても日本とは異なること。

とても多様なのです。

 

さらに値段も違います。

 

カリフラワーは日本では高級品ですが、こちらでは日常的に目にします。

日本より圧倒的に安いのに、若者人気はイマイチなようです。日本にいたら大人気なのに、残念。(笑)

 

ケールもよく見かけます。

 

ケールとは聞きなれない方もいるかもしれませんが、青汁の材料としても使用される高級な野菜です。でも、少し独特な味がするので苦手な人も。

日本では高級かつ栄養食品として注目を集めておりますが、なかなかお目にかかれません。

でも、さすがアメリカ。

ケールはよく目にしますし、今日はレタスよりケールの方が安かったんです!!!(これ、日本じゃ絶対にありえない)

 

こんな風においてあるものも違えば、価格も、見た目も、異なります。

同じレタスでも日本のレタスというよりいわゆる「グリーンレタス」が主流ですし、オレンジはあるけどみかんは少ないです。

(みかん食べたい…)

 

やはり土地によって取れるものが異なるため、食習慣が異なるのも納得ですよね。

 

カリフォルニアは野菜も果物も豊富でとっても楽しい。

 

食べるのが大好きな私にはたまらない土地です。

 

「食」から文化を考えるのも、また面白いかもしれません。

 

好きなことはありますか?躊躇するあなたへ

好きなことの話をしようと思います。

 

私は、音楽が好き。

 

特にアコースティックギターが好き。

 

弾くのも、アコギの音を聴くのも、大好き。

 

アコギの静かで、ささやかで、でも力強い音を聴くたびに体がしびれる感覚。

 

たまらなく好きなのです。

 

でも、そんな大好きなアコギの音も、アコギを弾くことも、この1-2年の間まともにしてきませんでした。

好きなことは変わりませんが、自信をもって「好き」と言えなくなっている自分がいます。

好きだけど、最近全然触れてない。これで「好き」と言えるのかな。

 

アコギを弾くと普段の自分から解放され、夢中になる。

素敵なアコギの音を聴くと思わず体がじーんとなる。

 

その感覚は今も変わっていないのに、です。

 

「好き」に程度はあるのでしょうか?

 

これは多くの人が直面する問題かと思います。

「好きなことは何?」と聞かれても、好きだけど特別うまいわけでも詳しいわけでもない時、答えることをためらいますよね。

好き=精通している

というイメージをなんとなく持ってしまいがち。

 

だから、精通していない時に本当に好きなのに「好き」と言えなくなってしまう。というか、精通していないということは本当は好きじゃないのかも?と思ってしまう。

 

でも、何だかそれってもったいないなと。

 

感情はもちろん程度を持ちます。ちょっと好き、普通に好き、大好き、すごい好き。

色々な言葉で表現されます。

でも、みんな「好き」であることは一緒。

 

むしろ、程度を気にしてその「好き」の感情を見逃してしまうことこそが、もったいない。

自分が好きだなと感じたものって、何か絶対共通項があるはずで、自分の好きなものを認識することは「自分を知る」ことに繋がると思うのです。

小さな好きでも、大きな好きでも。

好きは好き。

大事なのは何が自分の琴線に触れているのか。

どんな時に感情が高ぶるのか。

 

一つ一つの感情に丁寧でいることで、自分にとって大事なものが見えてきます。

 

同じものを見ていても、人によって感じ方は全く異なる。

だからこそ人って面白いなと思います。

 

「好き」を大切にすることは、自分のアイデンティティにもつながるのではないでしょうか。

きっとその「好き」を持っているのは、自分だけなのだから。

 

今度「好きなものは何?」と聞かれたら、自信を持って、音楽・アコギだと言おう。

 

そんなことを、大好きな音楽の世界に久しぶりに没入した夜に思いました。

「かわいい」はかわいくない!?秘められた本当の意味とは

今までも度々取り上げている日本のポップカルチャーに関する授業で、再び興味深い話があったのでお伝えしたいと思います。

 

今回のテーマは「かわいい」

 

「かわいい」という言葉は現在、英語でそのままKawaiiと訳されるほど市民権を得ており、日本の若者文化を代表する言葉ということが出来ます。(アメリカ人で知らない友人は多いけど…笑)

 

私たちは「かわいい」という言葉を様々な場面で使います。

かわいい動物、キャラクター、赤ちゃん、建物、食べ物、アイドル、ファッション、言葉遣い、見た目、考え方…

 

「かわいい」ってとっても便利な言葉。

「やばい」「すごい」も汎用性という点で群を抜いていますが、「かわいい」は特に女性にとっては日常的につい口をつく言葉ではないでしょうか。

 

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↑「かわいい」でGoogle画像検索した結果

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 ↑kawaii」でGoogle画像検索した結果

ここから、日本と海外での「かわいい」に対するイメージの違いが分かりますね

 

ある文献で面白いなと思ったのは、「かわいい」という言葉は単純に

「かわいい」=キュート、愛らしい、純粋 

といった意味で使われているわけではないこと。

実は、かわいいという言葉は「哀れ」という意味合いも含んでいるんです。

 

例えば赤ちゃんを見たとき、かわいいと思うのは彼らがまだ未成熟で幼稚で身体的にも劣っているから。

トトロやドラえもんのような手足が短いキャラクターをかわいいと思うのは、彼らが身体的に不自由な部分も持つから。

「かわいい」と「かわいそう」は表裏一体の言葉なのです。

 

この事実を知り、なるほどと納得すると同時に今後「かわいい」という言葉を使うのをためらってしまいそうです。

よく男性たちが、女性が何に対しても「かわいい」ということが理解できない、気持ちが悪いという話を耳にしますが、男性にとっての「かわいい」は単なる愛らしい、という意味なのでしょう。でも女性にとってはもっと複雑で多様な意味があるのです。

 

さらにさらに

 

もっと大切なことがこの言葉には隠されています。

 

それは、「社会への反抗」

 

「かわいい」という言葉が使われるようになったのは、「かわいく」振る舞い、「かわいい」ものを愛することで、自分たち自身を幼児化させ、こんな幼いのだから社会の責任なんて果たせないよ!と、大人になりたくない若者たちの気持ちを表してくれているから。

 

日本社会って、大人になること=社会の決まりに入らなくてはいけない、という苦しいものとして語られることが多いです。

 

でも、そんな風になりたくない!逃げたい!

 

そう思った若者が、「かわいく」あること=未熟で幼稚 で現実逃避をしている。

 

それこそが「かわいい」の本質なのだそう。

 

 

うーむ。

 

今まで全く意識せず毎日発していた言葉にこんな深い社会的意味があるとは。

「かわいい」は大人になりたくない私たちにとってとっても都合の良い言葉だったんですね。

 

この観点は「かわいい」文化の当事者である私にはなかったもの。

勉強になります。

 

しかし、同時に疑問も感じます。

 

時代、変わっているんじゃない?

 

この分析がなされたのは1990年代前後。日本はバブル絶頂期。

 

今の日本は、もうただ「かわいい」だけで責任逃れ出来なくなっていると思うのです。

皆、「かわいく」振る舞ったところで誰も自分の将来の保証はしてくれないこと、社会に出たくなくても生きるためには出なくてはいけないことを自覚しています。

バブル期の日本では、「かわいく」ても何とかなったかもしれません。(たぶん今よりは何とかなっていたはず…)

 

でも、もう違うと思うのです。

 

「かわいい」は相変わらず毎日飛び交うし、いたるところに「かわいい」はいます。

でも、「かわいい」と表現しつつも、皆心まで「かわいく」なりたいとは思っていないと思うのです。

そりゃ、出来れば大人になりたくないし、責任だって逃れたいし楽したいけど。(笑)

 

それがいわゆる「悟り世代」と言われている所以かもしれません。

 

ただ「かわいく」甘えて逃げるより、立ち向かっていくことの方が評価される世の中にシフトしていっている気がします。

 

良い悪いの話ではなく、文化も時代も考え方も社会も、全てが移り変わっているのです。

 

今の時代の流れを把握すること、そして自分の文化の担い手となっていること。

今まで無意識でいたことに意識的でいたいなと思います。

 

さてさて、ブログも書いたしテスト勉強にも疲れてきたので、「かわいい」動物の動画でも観て、癒されてこようかな。

まだまだ「かわいい」から抜け出せそうにありません。

英語の挫折。

留学に来て一番感じることは「言語の壁」

 

9月末から留学が本格的にスタートし、カリフォルニアでの生活も4か月目に突入しました。

一般的に言われているのは、最初の3か月がしんどく、それを乗り越えると語学力はある程度のレベルまで行きつく、というものです。

 

ですが、私の場合4か月経過したいま、英語の壁に何度も跳ね返されています。

 

もともと英語が得意ではなく、交換留学に合格するためにある程度の勉強はしたものの、それっきりでした。

日本でも英語力を向上させる努力をしたことがないため、出来ないことは当然ですが、その事実がどうしようもなく私を臆病にさせるのです。

 

つい先日、大学内で開催されたStartupWeekend(スタートアップウィークエンド)というイベントに参加してきました。(日本でも開催されています)

startupweekend.org

こちらは、その場で様々なアイデアを持った参加者が1分間でプレゼンをし、仲間を集め、54時間でビジネスプランからプロトタイプまで創り上げるというものです。

 

特にアイデアを持ち合わせていなかった私は、面白いなと思ったアイデアに参加させて頂きました。

 

そこでのチームメンバーは私を含め8人。みんな現地の学生・大学院生・社会人です。

 

最初はこのチームに入れること、アイデアにわくわくしていましたが、ここからが私の挫折の始まりでした。

 

議論に全く参加できないのです。

 

まず、皆が話していることを理解するのに時間がかかる。

そして、理解した時には次の話題に移っている/言いたいことを先に話されてしまう。

たとえ言いたいことがあっても英語にするにはまた時間がかかり、結局うまく伝えられない。

 

そして、私はひたすら皆の話を注意深く聴くことに徹する「お地蔵さん」と化してしまったのです。

 

何とかこのチームに貢献したい、少しでも良いものを創り上げたい、そんな想いから必死に食らいつこうとしました。

 

自分に出来ることは何だろう、そう考えて調査を行ったり要所要所でコメントしたりしてみました。

 

でも、どうしようもなく何も伝えられない自分に愕然としたのです。

 

そして、限られた時間しかない中で自分が話すことでチームの勢いを止めてしまうのでは、そんな恐怖から次第に口数も減っていきました。

 

議論が白熱する中、私はまるで一人暗闇の中から外の眩しい世界を眺めているだけでした。

 

英語が出来ない。

私はそれだけで、その瞬間努力することを放棄してしまったのです。

 

そこには「悔しい」という感情すらありませんでした。

ただひたすら、茫然としていたのです。

 

「英語が出来ないならジェスチャーを」「単語単語で言えばいい」「話せないことを恐れず、仲間の理解を得られれば良い」「大事なのは伝えようとする意志」

そんなことが巷では言われており、本当にその通りだと思います。議論に参加することを諦めてしまった私は、完全に問題児でしょう。

 

頭でわかってはいても、感情がセーブしてしまう。

自分がどうしようもなく弱く、未熟なことを痛いほどじんじんと感じました。

 

「英語の挫折」という言葉は適切ではないでしょう。「情熱の挫折」の方が近いかもしれません。

情熱があれば、きっと英語の壁なんて感じなかったはず。

 

そして、こちらの記事と動画を目にしたのです。

www.glitty.jp

びっくり。

以前テレビで水原希子さんを目にした時、とっても流暢に英語を話しているイメージしかなかったからです。

 

そして、彼女の英語に対する姿勢に自分のもやもやがしぼんでいくのを感じました。

 

私はただ、自分を守りたかっただけ。

出来ない自分を晒したくなかった。

 

だから、正面突破をせずに壁を見つめてとぼとぼ引き返していたのです。

様々な理由をつけて。

 

英語を話せるたくさんの友人がいます。

彼らを見ては、私はただいつも「羨ましい」と指をくわえてじーっと眺め、それっきりでした。

「きっとどこかに秘訣がある」「いつかは乗り越えられる」そんな風にとっても他力本願な考えで今まで過ごしてきましたが、秘訣なんて何もなくて、ただ正面から立ち向かうしかないのだと気付きました。

 

やっと、暗闇の中から立ち上がる準備が出来たのです。

 

留学も残り半年。

 

遅いけれど、今気づけて良かった。

 

努力することを恐れずに、自分のペースで進んでいこうと思います。

 

 

留学で一番言ってはいけないこと

留学で一番言ってはいけないこと。

 

それは、

 

「もし日本語だったら」

 

でも、一番考えてしまうことでもある。

 

明日に控えた中間テストのために勉強していたのですが、なかなか理解できないことがたくさんあります。

ノートを読んでも流し読みではわかりません。

立ち止まって、ゆっくり読み返して、頭で内容を組み立ててやっと理解できます。

 

今まで英語と真剣にぶつかってこなかったので、当然と言えば当然なのですが英語で学ぶことは言うほど簡単なことではありません。

(そういえば最近英語の壁にぶち当たったので、それについてはまた書きますね)

 

大量のリーディング課題も、ペーパーも、全部全部私がこなすには現地の学生の何倍もの時間がかかります。

図書館にこもり、電子辞書片手に数時間闘ってやっと読み終えたリーディング課題を、現地の学生がカフェでコーヒー片手に涼しい顔で読んでいる姿を目にすると悲しくもなります。

でも、そんな環境でも自分が努力がすればきちんと渡り歩けること、その楽しさと充実さもあります。

 

しかし、テスト前になるといつも「これが日本語だったら」とどうしても頭をよぎってしまうのです。

きっと日本語だったらすごく楽。

すぐ理解できる。

考えたことをすぐ言葉にできる。

ノートだって綺麗に取れる。

記述で言葉が浮かばなくて泣きそうになることもない。

 

でも、本当にそうでしょうか。

 

確かに、日本語だったら圧倒的に理解するのに時間はかかりませんし、リーディングだってすぐ読めてしまうでしょう。

でも、日本でのテスト前を考えた時、それでもやっぱり私は苦労していました。

特に経済学という慣れない分野を学んでいたので、教科書に並ぶ文字列と図は私にとってはチンプンカンプン。

日本語なのに、日本語じゃない!

そう思ったことが何度もあります。

 

だから、きっと言語なんて関係ない。

英語でわからないことは日本語でもわからない。

 

大事なのは、心だと思うのです。

 

幸いにも、前学期では良い成績を残すことが出来ました。

 

その理由は、日本語だとあきらめてしまったり投げやりになる部分を、英語だと必死に理解しよう、ついていこうと食らいついていく姿勢があったからです。

 

英語が理由で諦めたくなかった。

 

大変なときこそ、人は頑張れるのかもしれません。

 

 

そう分かってはいても、日本語だったらめちゃくちゃ楽なんだろうなあとやっぱり思ってしまう。

 

理解はしているのに、テストで結果が出せなかったりアウトプットがうまくいかないとひたすらに悔しい気持ちになります。

「もし日本語だったら」、言語能力によって成績やコミュニケーションが左右されることはないでしょう。

でも、そんなことを言っても、ここはアメリカ。日本語を話しにきた訳ではありません。

 

そこで

 

マインド変えたらいいんじゃない?とふと今思い立ちました。

 

今までの私「もしこれが日本語だったらなあ…」

         ↓

これからの私「もしもっと英語が出来たら」

 

どうでしょう!?

 

ちょっと前向きになりましたよね!

今まではただ今の状況を嘆くだけでまるで生産性のない話をしていて、

これからはもっとその次のステップに向けて、踏み出すような思考になろうと思います。

 

正直、ずっとこの状況を嘆いていました。

(アメリカまで来て何やってんだ、って感じです。本当に。はい。ごもっとも。)

 

でも嘆いていても状況は全く変わらなかったので、もう嘆くのはおさらば!!!

 

次のステップへと行きます。

 

もう嘆かないように

もう諦めないように

 

これからまた、勉強に戻ります。

「もっと英語が出来たら」

その悔しさを忘れずに。