備忘録ですよ。

20代。留学中にブログを始め、思いついたように小さな想いをつぶやきます。

福沢諭吉『文明論之概略』を読んで

前回からまたすごく時間が経ってしまった、、、。『坊ちゃん』の後は『文明論之概略』を手に取ったのですが、とても手ごわかった(笑)。

何がって、読みなれない文体なのです。内容も一つ一つが深いために理解するのに時間がかかってしまいました。それでも、福沢諭吉が当時危機感を持ちながら、知見を濃縮させた本だったので、やっとの思いで読了しました。

 

以下、ネタバレ含みの感想になります。

 

一言で表すのなら「本質は変わらない」ということ。

主に西欧と日本の対立で、「文明」や「日本の在り方」を述べているこの本。

福沢が指摘していることは現代にも通じることばかりでした。

 

物事が良いか悪いかなどは相対的に決まるものである(第1章)

 

当たり前のようですが、そもそも何かの議論は相対的に決まっていく。同じように、文明開化したかどうかも、文明が未開化・半開している場所があるからこそ生まれる考えだ、と福沢は述べています。

この時点で、文明開化している西欧は優れている、という偏重的な考えですよね。

私たちは無意識に言葉によって、良し悪しの判断をしているのでは、と考えさせられました。

 

また、福沢は「文明とは、人の智徳の進歩のことである」と述べています。

文明は目的ではなく、進歩そのもののことなので、一人ひとりの智徳の外に表れるものだそう。

 

なので、文明で大事なのは一人ひとりの力なんですね。

 

例えば、政治などもシステムや政治家だけに頼るのではなく、自分たちの頭で考えて動く、一人ひとりの積み重ねが大事なのかなあ、と思いました。

これは福沢が学問をすすめる理由にもなります。

 

そして、なるほどと思ったこと。

物事が得かどうか、便利かどうかは時代と場所による(第7章)

 

人力車は日本では便利だけど、パリやロンドンではふさわしくない。これと同じように、時代と場所によって求められるものは異なる、ということです。

 

これは現代にも活きる教訓ですよね。

ビジネスでも時代が変われば、変わる必要があるし、地域によってヒットするものも変わります。

変化の激しい時代こそ、この教訓を忘れずに柔軟に対応する重要性を実感します。

 

西洋文明と日本文明の違い(第8・9章)

 福沢は、西洋文明と日本文明の違いを金銀銅鉄に例えています。

西洋文明は、金銀銅鉄をそれぞれ一つの塊とみなし、そのどれか一つを選ぶのではなく、全ての平均を抽出し、全体の和を保っているとしています。

日本文明は、金銀銅鉄をそもそも独立した塊としている訳ではありません。仮に、そうだとしても、全ての平均を混ぜるのではなく、どれか一つの比重が高くて、他のものを消滅させているのです。

 

つまり、西洋文明は多様性を認め、共存しています。

それに対し日本文明は、一つのみを認めその他は排斥されているのです。たとえその中に多様性が存在していても。

 

この例えは辛辣ですが、非常に日本と西洋の根本の違いを表しています。

 

日本でもよく言われますが、日本では解が一つとみられがちです。

それに対し、西洋では解は存在しないし、違っていいよね、という考えです。

アメリカ留学を通じて、本当は多様なのに無理やり同質化している日本に気づいたことを思い出しました。

 

この違いは、そもそも文明が創られた歴史から生まれたのだと知りました。

そして、根本的に違うからこそ、文明化が進んだ現代でも存在する違いなのだと実感しました。

 

まとめ

読破するのにとても時間がかかった『文明論之概略』。

言葉は難しいものの、激動の時代を生き、強い危機感から日本を奮い立たせようと本気で考えていた福沢が日本を、世界をどう見ていたのかを学ぶ素晴らしい機会となりました。

 

そして、残念ながら福沢が警笛を鳴らしていたけれども本質的に変わらない日本であることも、実感しました。

 

今、福沢が生きていたら何て言うのだろう、そんなことを考えました。