アメリカで『もののけ姫』を観て、考えること
先程、寮の企画でみんなでジブリ作品の『もののけ姫』を鑑賞しました。
(寮には50人ほどが入れる小さなシアタールームがあるのです。素敵。)
アメリカでもジブリ作品を知っている人は多く、小さなシアタールームに収まりきらないほど人が来て、日本人として何だか嬉しくなったり。
そして、英語吹き替え版の『もののけ姫』("Princess Mononoke")を観たのですが、たくさんの発見と映画に込められた(と私が勝手に感じた)想いに考えさせられ、深く感動しました。
(*ここから先はネタバレ含みますのでご注意ください)
舞台はどこ?時代は?人種は?
今学期、"Pop Culture in Japan"という授業を履修している関係から、日本のアニメに対する見方が変わりました。その切り口からまず『もののけ姫』を見てみたいと思います。
日本のポップカルチャーがアジアのみならず欧米でも広く普及している理由の一つに"Cultural Odorless"(文化的無臭性)があるそうです。つまり、日本のポップカルチャーには「日本らしさ」がないということ。だから、世界中の人が自分の文化に当てはめて、すんなりと受け入れることが出来ているんです。
確かに、ワンピースやナルトなどのキャラクターの人種って何?と聞かれても応えあぐねてしまいますよね。
じゃあ『もののけ姫』はどうでしょうか?
主人公アシタカ、もののけ姫のサン。
(ちなみにこの写真のシーン、とっても好き)
肌の色からアジア系かな?と思いますが、国までは判別できません。まさに、Cultural Odorless(文化的無臭性)ですね!
映画の舞台も、日本なのか海外なのか、そんなことを想像させないほど中立的かつシンプルに描かれています。
しかし、アシタカが訪れるタタラ村(Iron Town)では服装など、縄文~弥生前後の日本ですし、現にタタラ村が戦う村では日の丸を掲げています。
主人公たちもとっても中立的特性を持っていますが、お米を食べたり、お箸を使ったりと端々で日本文化を感じました。
(アメリカにいる身としてはそんな光景にほっこりほっこり。)
人間と自然の共生の在り方とは
そして、今回一番考えたこと。
それは人類の発展と自然との関係性です。
『もののけ姫』では、発展するため、豊かになるために自然を壊す人間とそれに反抗する自然との闘いが描写されています。
周りを顧みずひたすらに発展してきた私たちに、「人間でも、自然でもない」もののけ姫を通じて痛烈な批判を叩きつけています。
発展を信じて、生活のために汗水流して働き続ける人間。
自分たちの住処が壊されていくことに憤る動物たち。
どちらの心情も痛いほどわかる。でも、容赦なく自然を破壊していく人間の姿に眉を顰め、思わず顔を背けてしまいました。
動物たちの、自然の、悲痛な叫び声が頭の中でこだまするのです。
人間は、自然界において非常に独特な生き物です。本来は自然の中に生きるはずの動物が、自然を壊す。その代わりに自分たちの手で作り上げていく。
こんな矛盾ってないなと。
いつから自然の中で生きることが、人間にとって自然なことでなくなってしまったのでしょうか。
いつから人間は自分たちで作ったものに、より価値を見出すようになったのでしょうか。
文明から多大なる恩恵を受けて生きている私ですが、そんなことを考えずにはいられませんでした。
そして、人間の重大なテーマを誰もが楽しめるアニメ映画を通じて描き切った、ジブリの偉大さを感じました。
ちょっとしたユーモアがかわいい
やっぱり、幼い子供でも社会的側面を持つジブリを楽しめる理由は、ちょっとしたユーモアにあるなと。
例えば、アシタカが怪我人を背負って汗水たらしながら必死に歩くシーンで、こだまたちがマネっこしている姿だったり。
村人が骨折した手が治ったと思って喜んだ瞬間、実はまだめちゃくちゃ痛かったり。
そんな小さな、憎めない愛嬌のあるキャラクターたちと仕草が散りばめられていて、「笑う」という意味でも面白かったです。
幼い頃がこだまが怖くて直視して見れなかったけど(笑)、今ではこだまがかわいくて仕方ありません!(アメリカ人たちも"cute""pretty!"とお気に召した様子。)
今、観れて良かった
何だか長くなってしまいましたが、アメリカという地で改めてじっくり『もののけ姫』を観て、じんわりと「ああ、良かった」と思います。
ジブリ作品が大好きな私ですが(実家にジブリの全作品のDVD所持)、金曜ロードショーなどで済ますことが多く、じっくりと一つの作品を観る機会がありませんでした。
成長した今だからこそ、作品に込められたメッセージを強く感じましたし、同じ作品でも観る度に発見できるワクワクも知りました。
今度はどの映画を観ようかな。