備忘録ですよ。

20代。留学中にブログを始め、思いついたように小さな想いをつぶやきます。

ジャンキーフード大国での食欲のケア

皆さんはついついたくさん食べて、後悔してしまった経験はありませんか?

 

美味しいもの、好きなものを前にするとたとえお腹がいっぱいでも、カロリーが高いとわかっていても、伸ばす手を止められませんよね。

 

まさに最近の私。

 

食欲が止まらないのです。

 

もともと食べることが大好きで、四六時中食べ物のことを考えています。

インスタグラムではたくさんのデリスタグラマーと呼ばれる食べ物専門ノインスタグラマーたちを大量にフォローし、美味しそうな写真が常に並んでいます。

 

何だかおデブまっしぐらな人みたいですが、そんな私も人生で一度だけ本気のダイエットをしたことがあり、食には気を使っています。

半年かけ、8~10キロほど減量し今もその体重をキープしています。

ダイエットといっても、今まで全く食に気を使っていなかったので、栄養バランスを考え、間食を減らし、毎日筋トレをしていたらいつの間にか健康的な体になった、という感じです。

 

ある程度食には気を付けていたのですが、最近アメリカという油・砂糖・炭水化物大国にいていとも簡単に意志が溶けていってしまっております…。

 

今日も朝昼と普通に食べ、途中でArtのパフォーマンスを鑑賞した際に大量のクラッカー、チーズ、スナック、ジュースをつまみ、夜ごはんは軽くするぞ!と意志を固めたのに大好きなチーズケサディーヤとチキンを前に完食してしまいました。

 

ちなみに、ケサディーヤとはトルティーヤにチーズやチキンなど様々な具材を入れ、焼き上げたメキシコ料理です。日本ではなかなか見ないですが(私もアメリカで初めて食べました)、メキシコからの移民が多いカリフォルニアではよく見るファストフードです。

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(写真見てたらまた食べたくなってきた…。さっき食べたばっかりなのに…。)

 

見てお分かりの通り、なかなかジャンキー。

カロリーは具材にもよりますが1つ300キロカロリー前後。(ビーフとチーズケサディーヤだと600キロカロリーくらいある場合も…!)

 

お茶碗一杯分のご飯よりも高いですね。

 

アメリカに来た当初の頃は、これが食べきれませんでした。

それが、お腹がすでにいっぱいな状態でぺろっと食べれてしまったんです!

 

とっても美味しかったけれど、ものすごい罪悪感。

最近、食欲が止まらないのです。

 

夜ごはんを食べ終わった後も部屋でお菓子を食べてしまう。というよりむしろお菓子を食べないと落ち着かないくらい。

 

これはまずい。

 

私がダイエットをした時に実感したことは「食欲は精神と深く関係している」ということです。食欲は胃ではなく脳でコントロールされており、ストレスがあると食欲に異常をきたしやすいのです。

 

なので、ダイエットはストレスを取り除くこと、自分の心と向き合うことが最も大事だとされ、私自身も実行しました。

きちんと自分の心と向き合った結果、当時は甘いものをそれほど欲しいと思いませんでしたし、食をうまく自分でコントロールできていました。

 

それが最近、全く出来ないのです。

 

きっとどこかにストレスがある。

でも、食べることが楽しい。

 

そんな葛藤があります。

自分の体のことなので、自分が一番よくわかっていますが今一度自分の心と向き合って、緩急つけて食べられるようにしたいです。

 

今、自分の心の弱さを食べ物で埋めて間際らしているのかもしれない。

そう思うと、心をおざなりにしていたことを反省しています。

 

体に気を付けるには、まず心から。

心と身体は繋がっているとは言いますが、全くその通りだと思います。

 

もう一度、あのダイエットできちんと向き合ったように、心をケアしよう。

その想いを書き留めておきます。

映画『下妻物語』―これがザ・日本なの?

今日、以前も取り上げたPop Culture in Japanとう授業で映画『下妻物語』("Kamikaze Girls")を鑑賞しました。

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2004年の映画なので少し古いですが、あらすじはこんな感じ。

茨城県下妻市に住む竜ヶ崎桃子は、ロリータ・ファッションをこよなく愛する孤高の高校生である。もう一人の主人公・白百合イチゴは、レディース暴走族)の一員であり、桃子の父親の作ったベルサーチの偽物を買いに来たことをきっかけに、桃子の家に出入りするようになる。イチゴは、自分が所属する暴走族の総長が引退する時、代官山にいるらしい有名な伝説の刺繍家に「ありがとう」と入れてもらった特攻服を着たいと願い、資金を稼ぐために桃子を引き連れパチンコ屋に繰り出す。桃子は初めてのパチンコであったが、偶然連チャンし、易々と自分の服代とイチゴの刺繍のための資金を稼ぎ出す。イチゴは代官山に詳しい桃子を伴い伝説の刺繍家を探しに行くが、その刺繍家を見つけることはできず、イチゴは深く落ち込む。見かねた桃子は自分が刺繍を請け負う。不眠不休で刺繍をし、見事な刺繍入りの特攻服が仕上がった。その素晴らしさを見て、イチゴは感動を覚え、素直に感謝をする。その言葉を聞いて桃子は今までに感じたことのない不思議な感覚を覚え、これをきっかけに、二人の間に友情が芽生え始める。

引用:下妻物語 - Wikipedia

 

 私はこの映画を知らなかったのですが、先生曰く「日本をよく表している」映画とのことです。

 

一体どんな映画だろう。

 

何となく少し怖いような、でも映画はいつも新しい世界を見せてくれるのでワクワクして鑑賞し始めました。

 

感想としては。

 

映画として、純粋に一人一人に背景があり、コメディで笑える要素が盛りだくさんなのに心にじんわりくる温かさもあり、とても面白かったです。

 

ただ。

 

この映画に描かれている内容が「日本」を表していると外国人に思ってほしくない、と強く思いました。

 

登場人物が個性的すぎるのです。

 

ロリータファッションをこよなく愛し、孤独を好む桃子

暴走族に属し、荒っぽい言動を繰り返すイチゴ

元下っ端ヤクザでダメ親父

顔の長さの倍以上のリーゼントを振りかざす龍二

 

この映画に出てくる全ての登場人物の個性がとにかく強烈!

コメディ映画としては大変面白いですが、日本人として観ていてハラハラしてしまいました。

 

これは「普通」の日本じゃない

日本をこの映画で判断しないでほしい

 

そんな感情が、映画のストーリーに引き込まれていく中で渦巻いていたのです。

 

そして同時に思ったこと。

 

「普通の日本」ってなんだ?

 

ロリータを好む人はたくさんいるし、暴走族の方もいます。

彼らは、日本社会において多数派ではないかもしれませんが確実に存在しています。

 

じゃあ多数派はどんな人でしょうか?

 

主人公の年齢である高校生を考えると、きっときちんと毎日制服を着て、部活にも所属し、休日は友達と遊びに出かけたり、テスト前は勉強に苦しんだり。

 

でも、それって「普通」なんでしょうか?

 

きっとこの映画は、日本の「普通」概念に疑問をぶつけているのだと思います。

彼らのような人は存在するかもしれないし、しないかもしれません。

 

でも、皆がどこか感じている日本の「普通」であったり同質的な価値観に対するモヤモヤをこの登場人物たちが体現してくれている気がするのです。

 

やっぱり、この映画が日本だと思ってほしくはないけど(笑)、日本社会って海外みたらどこか歪んでいるのかも、そう思うきっかけとなりました。

 

海外にいる方が日本のことをたくさん考えます。不思議。でも楽しい。

優しいギターの音と、厳しい社会の変化

今学期からアコースティックギターのクラスに通い始め、今日2回目に参加してきました。

 

習うのはギターを教え始め35年、背中まである白髪を一つに束ねた、どこか昔のロックンロールを感じる優しい顔のおじいちゃん。

おじいちゃんと言いましたが、音楽に携わっている人はどういう訳か若くあり続ける人が多く、このおじいちゃんも例外ではありません。

 

生徒が来るのを待ちながら、ギターを感情の赴くままに奏でる姿は人生を謳歌しているようで、とても生き生きとしています。

 

そんなおじいちゃんと一緒に、早めに教室に着いた私は他の生徒が来るのを待っていました。

 

女の人が一人、重そうなギターを抱えて登場。

 

…。

 

本日の生徒は以上でした。

 

まさかの生徒2人におじいちゃんも戸惑いを隠せない様子。

(このクラスは単位になるわけでもなく、ただの趣味のものなので強制力はないのです)

 

そこで優しい顔のまま、20年前には毎学期30~40人以上の生徒を教えていたと語ってくれました。

 

それが、ここ数年になりギターを弾く人口がすっかり減ってしまった、と嘆くおじいちゃん。

 

無料で音楽が聴けるだけでなく、今ではスマホタブレットで簡単に楽器を演奏できてしまいます。

そんなこと一体誰が予想しただろう、そんな風におじいちゃんは続けます。

 

最近テクノロジーの発展などを考えていた私にとっては、とても気になる話題。

 

確かに楽器を弾けなくとも、持っていなくとも音楽に簡単に触れられます。でも、ギターを持っている友人を私はたくさん知っていますし、何より自分の手で楽器が弾けることとアプリで弾くことはあまりにも違いすぎる気がしたのです。

 

アプリで弾く=楽器を少し弾いてみたいけど、一からスタートさせるのは面倒な人

実際に楽器で弾く=アプリじゃ物足りない。自分で弾きたい人

 

と、全くターゲットが異なる気がするのです。むしろ、アプリの登場は今まで関心があったけど始められなかった人たちにとって、楽器を弾くハードルが低くなり、実際に楽器を弾くきっかけにもなり得るのではないでしょうか。

 

そして、おじいちゃんのギタークラスに通う生徒数が減った理由は、教えてもらわなくとも無料で、自分で学べる機会が増えたからではないでしょうか。

 

Youtubeを開けばギターの弾き方を丁寧に説明してくれる動画はたくさんあります。

分からないことがあれば、ググれば大抵のことは出てきます。

 

昔は対面で教えてもらうしかギターの上達の方法がありませんでしたが、現代はリソースが多様化し、かつそれが皆に開かれています。

つまり、様々な形の「おじいちゃん」が出現したのです。

 

私のようなギターを始めたい人(=消費者)にとっては嬉しいですが、おじいちゃん(=供給者)にとっては競争が激しくなり、渋い状況です。

 

なんだか、便利な時代って消費者である限り恩恵をまるっと受けられて最高ですが、供給者側になった瞬間話が変わります。

まだ学生の身分である私ですが、いつまでもこの状況に胡坐をかいてはいられない、そんな危機感を感じました。

 

とはいえ。

 

ギターを心から愛し、鼻歌をうたいながらギターを奏でるおじいちゃんの姿にそんな考えもちっぽけに思え、止まっていた手を動かし、ギターを弾き始めました。

 

教室に染みわたる、少し不器用なギターの音。

やっぱりこの音が好き。

テクノロジーの発展と忘却

現在、テクノロジーの発展に関する授業を履修しているのですが、そこで何だか不思議な感覚に襲われました。

 

今回の授業では社会・テクノロジーの発展の関係とそれに対する反応について学びました。

 

情報の伝達は「口語→書く→印刷→エレクトロニック」の順序で発達してきたそう。

昔の人は口伝えでしか知識や考えを残すことが出来なかったのに、今では一瞬にして情報・アイデアが世界中に拡散するなんて凄まじい変化ですよね。(ブログもその一種だ!)

 

そんな授業内容を聞きながら、「きっと昔の人は今の私たちの姿なんて想像もつかなかっただろうなあ。」とぼんやり。

 

そしてふと思ったのです。

 

あれ、私ももっと不便な時代にいたよね?

 

現役大学生、世間的にはデジタルネイティブ(インターネットやパソコンの中で育ってきた世代。1980年代以降生まれくらからをさすらしい)と言われている私ですが、幼いころに観ていた映画は全てDVDではなくビデオだったし、カセットテープだってたくさん持っていました。

初めて手にした携帯電話もガラケー

小学校の頃は電話を使うのに憧れて、テレフォンカードを大事に大事にランドセルに忍ばせ、ごくたまに使う公衆電話にわくわくしたのを覚えています。

家にあるテレビは画面よりも幅が分厚く、なかなかな存在感。

 

そんな環境でずっと育ってきました。

 

しかし、ふと気が付くといつの間にかガラケーからスマホに、分厚いテレビから薄型に、カセットからipodに、ビデオからDVDに移行していました。

 

それらの変化はライフスタイルを変えるほどの大きなものだったのに、本当に「気が付いたら」すべてが変わっていたのです。

 

スマホがない生活、パソコンがない生活、ネットがない生活なんて考えられません。

 

でも、今の生活が確立されたのはこのほんの数年間の話。

それなのに、その生活に依存していると思うとぞっとします。

 

発展することは便利にもなりますが、同時に何かを蝕むんじゃないか、そんな感覚に襲われたのです。

(昨日見た『もののけ姫』の影響かな、、、。(笑))

 

そして同時に、私たちはすぐに「忘れる」のだと感じました。

 

LINEがなかった時代に、どうコミュニケーションを取っていたかなんて日々思い出しません。

Youtubeがなかった時に、どうやって暇つぶしをしていたかなんて意識しません。

 

発展の怖いところは、私たちに「なにこれ超便利!」と最初の一瞬だけ思わせて、その後素知らぬ顔ですっと、私たちの生活に馴染んでいくことです。まるで昔からそこにいたように。

 

それは、柔軟な生活をしていく上で大切なことかもしれません。

でも、一方で忘れたくないことまで忘れてしまいそうな気がするのです。

 

カセットテープをびりびり引っ張って親を困らせたこと。

小さなテレビ画面にみんなで肩を寄せ合って観たこと。

CDを皆で貸し借りしたこと。

 

そんな経験があるから今があること。

 

次の発展は何だろう、とついつい急いでしまいますが、たまには今までの軌跡を振り返ってみるのも良いかもしれません。

 

こんな短時間で発展したことへの感動と、そして忘れたくない何かがそこにはひっそり輝いているはず。

 

 

 

アメリカで『もののけ姫』を観て、考えること

先程、寮の企画でみんなでジブリ作品の『もののけ姫』を鑑賞しました。

(寮には50人ほどが入れる小さなシアタールームがあるのです。素敵。)

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アメリカでもジブリ作品を知っている人は多く、小さなシアタールームに収まりきらないほど人が来て、日本人として何だか嬉しくなったり。

 

そして、英語吹き替え版の『もののけ姫』("Princess Mononoke")を観たのですが、たくさんの発見と映画に込められた(と私が勝手に感じた)想いに考えさせられ、深く感動しました。

(*ここから先はネタバレ含みますのでご注意ください)

 

舞台はどこ?時代は?人種は?

今学期、"Pop Culture in Japan"という授業を履修している関係から、日本のアニメに対する見方が変わりました。その切り口からまず『もののけ姫』を見てみたいと思います。

 

日本のポップカルチャーがアジアのみならず欧米でも広く普及している理由の一つに"Cultural Odorless"(文化的無臭性)があるそうです。つまり、日本のポップカルチャーには「日本らしさ」がないということ。だから、世界中の人が自分の文化に当てはめて、すんなりと受け入れることが出来ているんです。

 

確かに、ワンピースやナルトなどのキャラクターの人種って何?と聞かれても応えあぐねてしまいますよね。

 

じゃあ『もののけ姫』はどうでしょうか?

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主人公アシタカ、もののけ姫のサン。

(ちなみにこの写真のシーン、とっても好き)

肌の色からアジア系かな?と思いますが、国までは判別できません。まさに、Cultural Odorless(文化的無臭性)ですね!

 

映画の舞台も、日本なのか海外なのか、そんなことを想像させないほど中立的かつシンプルに描かれています。

 

しかし、アシタカが訪れるタタラ村(Iron Town)では服装など、縄文~弥生前後の日本ですし、現にタタラ村が戦う村では日の丸を掲げています。

 

主人公たちもとっても中立的特性を持っていますが、お米を食べたり、お箸を使ったりと端々で日本文化を感じました。

(アメリカにいる身としてはそんな光景にほっこりほっこり。)

 

人間と自然の共生の在り方とは

そして、今回一番考えたこと。

それは人類の発展と自然との関係性です。

 

もののけ姫』では、発展するため、豊かになるために自然を壊す人間とそれに反抗する自然との闘いが描写されています。

周りを顧みずひたすらに発展してきた私たちに、「人間でも、自然でもない」もののけ姫を通じて痛烈な批判を叩きつけています。

 

発展を信じて、生活のために汗水流して働き続ける人間。

 

自分たちの住処が壊されていくことに憤る動物たち。

 

どちらの心情も痛いほどわかる。でも、容赦なく自然を破壊していく人間の姿に眉を顰め、思わず顔を背けてしまいました。

 

動物たちの、自然の、悲痛な叫び声が頭の中でこだまするのです。

 

人間は、自然界において非常に独特な生き物です。本来は自然の中に生きるはずの動物が、自然を壊す。その代わりに自分たちの手で作り上げていく。

 

こんな矛盾ってないなと。

 

いつから自然の中で生きることが、人間にとって自然なことでなくなってしまったのでしょうか。

いつから人間は自分たちで作ったものに、より価値を見出すようになったのでしょうか。

 

文明から多大なる恩恵を受けて生きている私ですが、そんなことを考えずにはいられませんでした。

 

そして、人間の重大なテーマを誰もが楽しめるアニメ映画を通じて描き切った、ジブリの偉大さを感じました。

 

ちょっとしたユーモアがかわいい

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 やっぱり、幼い子供でも社会的側面を持つジブリを楽しめる理由は、ちょっとしたユーモアにあるなと。

 

例えば、アシタカが怪我人を背負って汗水たらしながら必死に歩くシーンで、こだまたちがマネっこしている姿だったり。

 

村人が骨折した手が治ったと思って喜んだ瞬間、実はまだめちゃくちゃ痛かったり。

 

そんな小さな、憎めない愛嬌のあるキャラクターたちと仕草が散りばめられていて、「笑う」という意味でも面白かったです。

 

幼い頃がこだまが怖くて直視して見れなかったけど(笑)、今ではこだまがかわいくて仕方ありません!(アメリカ人たちも"cute""pretty!"とお気に召した様子。)

 

今、観れて良かった

何だか長くなってしまいましたが、アメリカという地で改めてじっくり『もののけ姫』を観て、じんわりと「ああ、良かった」と思います。

 

ジブリ作品が大好きな私ですが(実家にジブリの全作品のDVD所持)、金曜ロードショーなどで済ますことが多く、じっくりと一つの作品を観る機会がありませんでした。

 

成長した今だからこそ、作品に込められたメッセージを強く感じましたし、同じ作品でも観る度に発見できるワクワクも知りました。

 

今度はどの映画を観ようかな。

柔軟な発想力。プログラミングから考えること

私は現在、Introduction to Computer Programming for ArtというArt専攻の授業を履修しており、そこでの気づきを書き留めたいと思います。

 

この授業はArtを専攻している学生向けの、基礎的なコンピュータプログラミングを学ぶ授業です。

 

日本では経済学部、カリフォルニアではGlobal Studiesを専攻しているプログラミングとは縁もゆかりもない、根っからの文系人間の私。

 

そんな私がこの授業を履修した理由はおいおい触れていきますので、ひとまず置いておきます。

 

プログラミング超初心者の私。

授業ではp5.jsと呼ばれるプログラミング言語をまず習いました。

 

プログラミングを書き込むtext editerをインストールすることさえ手間取り、先行きがとっても不安な中、教授から基本的な仕組み・簡単な図形のコーディングを学びます。

 

初回の授業で習ったのは、円・三角・四角・線といったとてもシンプルな図形たち。

 

教授の打つ画面を見ながら見よう見まねで何とか必死にコーディングをしていきます。

正直何がどうなって図形が生まれるかさっぱりですが、思い描いた通りに図形が描写されていた時の感覚がたまりません。

 

そうして3時間の授業を終え、基本的な図形を習得した私たちに課されたのは「これらの図形を使用して、風景/人物画」をコーディングすることでした。

 

!?!?!

(課題を聞いたときの私)

 

思わず、そんなの出来るわけない!とつっこみを入れたくなりましたが、ここはアメリカなのでぐっとこらえました。

 

他の生徒を見ると、皆たんたんと課題を受け入れ、早速取り掛かっています。

 

あれ、この課題に異を唱えたいのは私だけ、、、?

 

何だか物寂しくなったので、私も皆に習い課題に取り掛かってみました。

 

さて、何を描くか。

どうせならワクワクするものを描きたい!と思い、簡単そうなミッキーマウスを描くことにしました。

「mickey」の画像検索結果

しかし、みなさんミッキーをじっくり見てみてください。

とってもキュートな顔をしているのに、彼、なかなか複雑なんです。

 

プログラミング初心者の、ましてや円・三角・四角・線しか描けない私には強敵すぎる。

 

うーん、どうしよう。でも風景もかけないしなあ、、、。

 

頭をひねらせよじらせ、行きついた答えは「円だけで描けるミッキーを描こう!」というものでした。

 

ミッキーの顔をパーツに分け、うまく円を重ねあわせることでミッキーを描こうとしたのです。

 

もちろん、何度も何度も試しては失敗、試しては失敗の繰り返し。

しかし、ついに!!!

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どーん。

ご覧ください。

 

私、やりました。

ミッキーが円だけで構成されていることがお分かりいただけると思います。

 

そしてちょっと楽しくなってしまったため、文字と星までつけてみちゃいました。

 

ミッキーが描けた!プログラミングってうまくいくと面白い!

 

そんな風に感動したと同時に、新しい発想法を身に付けました。

 

最初は、基本的な図形だけで描けるものには限界があり、風景や人物画なんて到底無理だろうとあきらめ気味だった私。

 

しかし、出来ないならできないなりに、持てるリソースから何とか何か生み出せないか、発想を変えることが重要だと気付いたのです。

 

山の山脈を描きたい、でも波線が描けない。

→細長い三角で描けばいい!

 

星をたくさん描きたい、でもやり方がわからない。

→小さな円をたくさん描けばいい!

 

こんな具合に、一つのものの表現方法は一つではありません。

何かをやりたい時、出来ないからあきらめるのではなく、他に道はないか、違った方法はないのかを模索することこそが重要なのです。

 

一つに固執せずに柔軟に、様々な見方を試みる。

 

そんな姿勢が新たなものを生むし、可能性を広げてくれるのだと今回の課題を通じて学びました。

 

 

 

1ヶ月チャレンジ、始めます。

さて。

今日突然頭に浮かんだことに挑戦したいと思います。

 

それは、タイトルにある通り「1か月チャレンジ」

 

Goolgeのエンジニア・マット・カッツさんのとっても有名なこちらのTEDトークからインスパイアされたものです。

www.ted.com

 

様々なメディアにも取り上げられており、目にしたことのある方も多いのではないでしょうか。(TEDにしては珍しく、3分半という良心的短さ!)

 

内容はとってもシンプル。

1ヶ月だけ、ある1つのことをやり通すのです。

 

その1ヶ月が終了したら、もうそのことは全くやらなくていい。

1ヶ月限定の習慣を作るのです。

例えば、マットさんは1ヶ月で小説を書き上げる、1か月間砂糖を摂取しないなどに挑戦したそう。

 

実はこのTEDトーク、以前にも何度も目にしたことがあるのですがその度に面白そう、とだけ思って実践したことはありませんでした。

 

それが、なぜかふと「やろう!」と思い立ったのです。(1月って何か始めたくなりますよね。)

 

私は昔から飽き性で一つの物事が長続きしません。

というのも、色々なことに関心を持ちすぎてしまうのです。

 

あれもやりたい、これもやりたい。

え、あっちも面白そう!

 

そんな感情が常に渦巻いています。

 

でも、本当に挑戦出来たことは数えられるほど。

 

何だかんだ一時的に興味をそそられては、すぐに頭から離れてしまっていました。

 

そこで。

 

この1ヶ月チャレンジでやりたかったけれど、やれていないことに挑戦してみようと思います。

 

私の1ヶ月チャレンジは①生活面②勉強面の2つの側面で行っていきます。

 

この30日間チャレンジすることは

①生活面

毎日ブログを書くこと

②勉強面

毎日スラングを最低10個覚えること

 

この2つに絞って挑戦します。

継続は力なり。

 

私にとっても最も苦手な部分ですが、どうか温かくお見守り下さい。