カフカ『変身』を読んで
カフカの名作『変身』を読みました。
文庫版で100ページ弱しかなく、30分程で読み終わりました。
以下、ネタバレを含み、感じたことをまとめてみます。
?がいっぱい
正直、読みながらも?で頭はいっぱいでした。
小説って全てを理解することは出来ませんが、当たり前のように主人公が虫に変身し、家族も当たり前のように受け入れていることに驚きました(正確に言うと、家族も受け入れてはいませんが、少なくとも「人間が虫に変身する」ことに対する違和感はないようでした)。
しかし、家族は虫を気持ち悪がります。
カフカにとって何が「当たり前」で何が「当たり前でない」のか。
考えさせられました。
世の中の理不尽さ
一番感じたことです。
主人公のグレーゴルは一家の中でも息子ですが大黒柱で、グレーゴルが働けなくなることは家族にとって大打撃でした。
妹のためにお金も貯めていて、目標のある青年。
そんなグレーゴルが突然虫になって、働けなくなり、果てには家族からも見放されてしまいます。
努力し、目標もある人が突然人権を奪われてしまうのです。
こんな恐ろしいことはないし、憤りも覚えました。
私は、今グレーゴルみたいにしっかりしていません。
それなら、グレーゴルこそ人として生きるべきだと思ったのです。
「努力は報われる」とどこかで信じていますが、この小説を読むとやりきれない気持ちになります。
不幸には不幸が重なるし、世の中そんな上手く出来ていない。そのことを突き付けられたように思います。
一言で言うと、ぞっとする本。
自分がもしある日目覚めたら虫になっていたら。
家族は、友達は、恋人は。
どんな反応をするのでしょうか。
生き続けられるのでしょうか。
人の虫に対する見方を再認識させてくれましたし、「人間とはなにか」という本質的な問いも投げかけているように思います。
最近、AIやロボットはバズワードです。
人間の定義が昔以上に求められています。
カフカは、私たちよりずっと前から「人間」について考えていたのかもしれません。
福沢諭吉『文明論之概略』を読んで
前回からまたすごく時間が経ってしまった、、、。『坊ちゃん』の後は『文明論之概略』を手に取ったのですが、とても手ごわかった(笑)。
何がって、読みなれない文体なのです。内容も一つ一つが深いために理解するのに時間がかかってしまいました。それでも、福沢諭吉が当時危機感を持ちながら、知見を濃縮させた本だったので、やっとの思いで読了しました。
以下、ネタバレ含みの感想になります。
一言で表すのなら「本質は変わらない」ということ。
主に西欧と日本の対立で、「文明」や「日本の在り方」を述べているこの本。
福沢が指摘していることは現代にも通じることばかりでした。
物事が良いか悪いかなどは相対的に決まるものである(第1章)
当たり前のようですが、そもそも何かの議論は相対的に決まっていく。同じように、文明開化したかどうかも、文明が未開化・半開している場所があるからこそ生まれる考えだ、と福沢は述べています。
この時点で、文明開化している西欧は優れている、という偏重的な考えですよね。
私たちは無意識に言葉によって、良し悪しの判断をしているのでは、と考えさせられました。
また、福沢は「文明とは、人の智徳の進歩のことである」と述べています。
文明は目的ではなく、進歩そのもののことなので、一人ひとりの智徳の外に表れるものだそう。
なので、文明で大事なのは一人ひとりの力なんですね。
例えば、政治などもシステムや政治家だけに頼るのではなく、自分たちの頭で考えて動く、一人ひとりの積み重ねが大事なのかなあ、と思いました。
これは福沢が学問をすすめる理由にもなります。
そして、なるほどと思ったこと。
物事が得かどうか、便利かどうかは時代と場所による(第7章)
人力車は日本では便利だけど、パリやロンドンではふさわしくない。これと同じように、時代と場所によって求められるものは異なる、ということです。
これは現代にも活きる教訓ですよね。
ビジネスでも時代が変われば、変わる必要があるし、地域によってヒットするものも変わります。
変化の激しい時代こそ、この教訓を忘れずに柔軟に対応する重要性を実感します。
西洋文明と日本文明の違い(第8・9章)
福沢は、西洋文明と日本文明の違いを金銀銅鉄に例えています。
西洋文明は、金銀銅鉄をそれぞれ一つの塊とみなし、そのどれか一つを選ぶのではなく、全ての平均を抽出し、全体の和を保っているとしています。
日本文明は、金銀銅鉄をそもそも独立した塊としている訳ではありません。仮に、そうだとしても、全ての平均を混ぜるのではなく、どれか一つの比重が高くて、他のものを消滅させているのです。
つまり、西洋文明は多様性を認め、共存しています。
それに対し日本文明は、一つのみを認めその他は排斥されているのです。たとえその中に多様性が存在していても。
この例えは辛辣ですが、非常に日本と西洋の根本の違いを表しています。
日本でもよく言われますが、日本では解が一つとみられがちです。
それに対し、西洋では解は存在しないし、違っていいよね、という考えです。
アメリカ留学を通じて、本当は多様なのに無理やり同質化している日本に気づいたことを思い出しました。
この違いは、そもそも文明が創られた歴史から生まれたのだと知りました。
そして、根本的に違うからこそ、文明化が進んだ現代でも存在する違いなのだと実感しました。
まとめ
読破するのにとても時間がかかった『文明論之概略』。
言葉は難しいものの、激動の時代を生き、強い危機感から日本を奮い立たせようと本気で考えていた福沢が日本を、世界をどう見ていたのかを学ぶ素晴らしい機会となりました。
そして、残念ながら福沢が警笛を鳴らしていたけれども本質的に変わらない日本であることも、実感しました。
今、福沢が生きていたら何て言うのだろう、そんなことを考えました。
夏目漱石『坊ちゃん』を読んで
とてもお久しぶりです。ちょうど1年ぶり!
最近私は日本・世界の古典を読んでみようキャンペーンをしております。理由は、変わりゆく時代で、「変わるもの」「変わらないもの」をつかめる人になりたいから。
テクノロジーの台頭で、変化が激しい時代ですが、本質的なことは変わりません。そして、その本質は先人たちが考え、残し続けているはず。ちっぽけな私の頭で考えるのではなく、彼らから学びたいと思ったのです。
そこで、初めの一冊は小学校の時読んでちんぷんかんぷんだった夏目漱石の『坊ちゃん』。
以下ネタバレにになりますので、お気をつけ下さい。
『坊ちゃん』を読んで感じたことは、小さな胸の痛みでした。少しチクり。
主人公は、とても不器用で、彼の生き方は私には到底できません(だって増給とか断れない)。
でも、それでもすごく誠実だった。
不器用だけど、近代の人間が持ってしまった変なプライドがないのです。
私が胸がちくっとしたのは、「赤シャツ」に似ているから。大学に行って、欧米にかぶれて、世間体を気にするけど、うまくしがらみをかわしながら生きていく。
そんな狡賢さが自分にそっくりでした。
なぜ、この本が語り継がれているのか。
時代の過渡期に、誰よりも西洋を知り、「赤シャツ」の立場である漱石からの警告なのかなと思いました。
人生、それでいいのか、と。
正しいこと、えらくなることが全てじゃない。
身近な誰かを大切にすること、自分の信念を貫くこと。
それが頭でっかちの私(たち)は、出来ているのか、と。
もしかしたら漱石自身が、自分に言い聞かせていたのかもしれません。
最近天狗になりがちだった私には、ぴったりな本でした。
正直、なぜこの本がこんなにも語り継がれているのか、明確に分かった訳ではありません。
それでも、胸の痛みから学ぶことはたくさんありました。
30日間ブログを書き続けて思ったこと
今日、ついに30日間チャレンジが終了しました。
30日間ブログを毎日書くという目標を達成しました!!!
これは大きな自信になる。
正直忙しくて書く暇ないし無理、ってなった時もあったし中間テストの前なんかは心がざわざわしていたり。
でも、ブログを毎日書くことを頑張って続けて発見できたことがたくさんあります。
1.アンテナを張ることが出来る
毎日、今日はブログに何書こうかな、と何となく心にとめて生活していました。
そのおかげで、自分の感情が動いた瞬間にアンテナが張っていて、あ、今日はこれに心を動かされた、考えた、そんな物事を見逃さないように過ごすことが出来ました。
一つ一つの出来事に気を配ることで、なんでもない日常でもたくさんの感情の動きと発見と思考を動かしていることに気づけたのです。
2.記録になる
ブログ読み返していて、人の記憶って本当にすぐ忘れてしまうのだなと。
特に感情の動きの移り変わりは激しく、一瞬で過ぎ去ってしまいます。
あの時何を考えていたのか、何を思ったのか、どれほど苦しかったのか、どれほど嬉しかったのか。
その時確かに感情はものすごく動いたのに一瞬で忘れてしまうのです。
忘れることで人は生きていけますが、忘れたくないこともたくさんあります。
特に留学という特別な期間は、一瞬一瞬を逃したくないと思うのです。
自分が何に動かされ、何に苦しんでいたのか。
それをきっと日本に帰ったら忘れてしまいます。
実際、すでに前学期で大変だったことなんて思い出せません。
私は日記も毎日つけているのですが、その理由はどこかで目にした言葉が心に刺さったからです。
「自分の人生は、自分以外に記録できる人はいない。自分が記録しなければ、覚えていなければ、忘れてしまう」
そんな感じの言葉だった気がします。
この言葉を目にしてはっとしたのです。
この世界のちっぽけな私という存在。
そんな私の人生を気にかけてあげられるのは自分だけ。私しか知らないし、私が気に欠けなかったら、何も残らない。
その事実にとてつもない虚無感に襲われました。
私がせめて気にかけてあげないと。私の人生なんだから。
自分を大切にしよう。
そんな想いから日記をつけています。
ブログは自分を気に掛ける最大の手段だなと。
読み返すことで、自分がどんな想いでその時いたのかを鮮明に思い出すことが出来ます。
この日、このとき何を思ったのか。
自分の変化を記録できるのです。
今はまだわからないけれど、きっと留学が終わって見返したらまた違った見方ができるでしょう。
なんでこの時こんなことで悩んでいたんだろ、なんて。
つまり、記録に残しておくことは自分の人生においても大事だと思うのです。
3.頭が整理される
ブログを書く=言語化する
ということは、感情という抽象的でぐちゃぐちゃに絡まった紐を解きほぐす必要があります。
そのため、何となく頭で考えたことを言語化することで、すっきりするのです。
これってこうなのか、うーん、とぼんやり考えていたことをアウトプットすることで実は大したことじゃなかったり、結論は違う方向にいったり、なんてことが良くありました。
アウトプットをする場所を作ることで思考も整理されて、より頭にも定着するのです。
4.知識がつく
ブログを書くにあたり、テーマによっては自分一人だけではないので一応した知識を調べたりしました。
そこで何となく知っていたものに対する正確な知識を得られ、また思い込みを正すことも出来ました。ただ単にアウトプットするだけでなく、ブログだからこそある程度の責任感があり、自分の学びにもなりました。
5.30日間だからできた
正直毎日ブログを書くことは簡単ではないです。(どのくらいの長さを書くかにもよりますが)
そして継続することが苦手な私。
最初の1週間は楽しかったですが2週間もたつと飽きはじめ、正直書くのが面倒(笑)
それでも続けられたのは、期間限定だったから。
しかも30日間。
長いようであっという間な期間。
これが留学終わるまで毎日、なんて目標をたてていたら絶対続かなったでしょう。
終わりがすぐ見えるからこそ、あとちょっとがんばろうかな、続けようかな、と思える。目標を設定する上で短期的な目標、そして実現可能なものにすること、そして具体的な日にちを設定することは効果的なんだなと実感しました。
5.ブログという特性
もう一つ続けられた理由。
それは公開しているブログだから。
今回、全く他の人のブログに足を運んだり拡散する努力をしなかったので、多くの人に見られていたわけではないですが、それでも公開はしています。
つまり、誰かが観ている可能性があるわけで。
そして、ブログが公開された日時は記録に残ります。
なので、一日でもさぼったら30日間続けていないことがばれてしまう(笑)
そんな無意識のプレッシャーが、やらなきゃ!という想いにさせてくれました。
まだまだ学んだことはたくさんありますが、ひとまずこんな感じでしょうか。
ブログを始めたのは本当に思い付きでしたがこれを最初の30日間チャレンジに選んだのは自分ナイスすぎる。(笑)
次の30日間チャレンジは毎日インスタに投稿すること、にしようと思います。
そんなん楽じゃん、と思うかもしれませんが私はインスタの加工にめっちゃ時間をかけるのです(笑)
さらに、アメリカにいるからこそ大好きな食に関する写真で30日間ちょっとばかし実験してみたいなと。
このブログを毎日書くことはいったん今日で終わりですが、今後も自分の感情と発見を言語化し、記録する場として活用していきたいと思います。
留学ももう半分をきっています。
一日、一日を大切にしながら過ごしていきます。
理想の自分って?
最近考えていることがあります。
それはどんな人になりたいのかということです。
皆さんになりたい人物像はありますか?
きっとたくさんあると思います。
頭良くなりたい。
面白くなりたい。
美しくなりたい。
健康でありたい。
英語が話せるようになりたい。
コミュニケーション能力が高くなりたい。
尊敬されたい。
好かれたい。
好きなことをしていたい。
素直でいたい。
自分の好きな自分でいたい。
何だかたっくさんの欲望があります。
でも書いていて思いました。
思ったほどない(笑)
いや、この書いたことが達成できれば素晴らしすぎるのですが、
欲望ありすぎてどうしよう!!!と思っていたのですが、意外と数は多くなくて安心しました。
でも、一つ一つを達成するのがとても難しい。
そしてこの憧れは私だけが持っているものではないと思うのです。
きっとみんなも願っていること。
そして突き詰めれば人間の欲望は長い間同じなのではないでしょうか。
そして欲望を並べた後大事なのはどうやってこれをかなえるのか。
一つ一つが抽象的すぎて目標も立てづらい。そして願い一つ一つの優先順位がわからない。本当に必要かもわからない。
何かの本で読みましたが、人間の悩みは全て「対人関係」だそう。
そして、この欲望たちも「対人関係」を前提としています。
誰かがいなければ生まれるはずもない欲望。
よく考えたら、私はいつだって周りの目を気にして生きてきました。
それは幼少期が関係しているのですが、あまりにも気にして、人とたくさん比べて勝手に落ち込んで自分に絶望することが多いです。
大学を選ぶ時も、やっぱり人の目を気にしなかったといったらウソになります。
自分に自信がないのです。
いくら合格をもらっても、何かで良い成績を収めても、やっぱり本当ではない気がして。あれは何かの間違いだったのかなって。
不安になります。
だからこそ、私は挑戦をしているのかなとも思います。
よく聞く「コンフォートゾーン」「ラーニングゾーン」「パニックゾーン」の話。
私はめちゃくちゃ怠惰で、出来れば家に一日中ごろごろして、好きなだけ寝て、好きなものを食べて、テレビや映画を見て、なんて生活が大好きです。
超絶怠惰。
なのに、なぜかいつも自分を苦しい状況に追い込んでしまうのです。
留学だってそう。
絶対留学に行かないで日本にいた方が、楽とは言いませんが圧倒的に居心地は良いです。レールにのって、周りの流れに合わせていればよいのですから。
話せなくてへこむこともなければ、友達が出来なくて悩むこともなければ、こんなたくさんの課題をしなくていいし、お金だってかからないし、文化の違いに悩んだり、自分の無力さに悲しくなったり、家が恋しくなったりもしない。
それなのに、飛び込んでしまう。
絶対に大変とわかっていても、自分にとってかなりハードルの高いイベントや活動でも参加してしまう。
そして毎回、始まる前に後悔するのです。なんでこんな不相応なものに申し込んじゃったんだろう。飛び込もうとしたんだろうって。
そしてその間もやっぱり大変で、苦しいけど、終わると本当に挑戦して良かったなといつも思います。
勇気を出してよかった。また一つ新しい、刺激的な経験が出来た。
そんな風に感じて、そしてやっぱり楽しさも見出していて、そしてまた新しく挑戦する。
そんなことを繰り返しています。
それが不思議でたまりません。
私は本当に怠惰だし、
とても無能なのに
どうしてコンフォートゾーンから抜け出したくなるんだろう。
それは焦りと自信のなさもあるけど、
やっぱりコンフォートゾーンから抜け出して挑戦していく方が世界が広がって、めちゃくちゃ楽しいからなのかなあ。
そして、何だか遠かった周りの人たちが近く感じるのです。
たくさん面白いことを知れて
たくさん面白い人たちと出会えて
自分の世界が広がって
それがたまらなく楽しい
文字通り世界が広がって
何も達成できない無力な自分が少しでも力をつけて
最後はちゃんと恩返しが出来たら
そんな風に思います。
まとまりないですが(笑)
欲望ばかりいうのはやめて
ちゃんと行動を起こしていかなきゃなと。
日本にいる時は「やらない後悔よりもやる後悔」という言葉を大切にしていました。何か迷ったらやる。そんな姿勢でしたが留学にきて逃げ腰になっていました。
実際環境も自分の能力も圧倒的に変化している留学中になんでも挑戦していたらパンクどころの話じゃありませんが(笑)、それでもバランスよく挑戦していく心は持っていたいです。
そして、理想の自分に少しでも近づくために。
そして、自信をつけて
少しでも自分を好きになって
還元していけたら。
アメリカのバレンタインデー
今日はバレンタインデー!!!
日本とは時差の関係で一日遅れ。
チョコが大好物な私にとってバレンタインは大好きなイベントなのですが、アメリカのバレンタインは日本とは異なります。
日本では女性から男性にチョコを渡し、伝統的には告白するイベントとされています。
現在は友チョコも流行しており、本命チョコ・義理チョコという区別も。
そして女性たちはこの時期になると手作りチョコを夜なべして作り、かわいくラッピングしてバレンタイン当日に渡す。
そして、3月にはホワイトデーでは男性から女性にお返しが渡される。
これが日本のバレンタイン。
でも、アメリカは全くの逆!
男性から女性に贈るものとされています。
さらに言えば告白をともなうものではなく、日ごろの感謝を大切な人に伝える日なんです。
なので、彼女がいなくとも友人にチョコを渡したり、みんなでディナーを食べに行ったり。
チョコを手作りする人は少なく、その代わりにスーパーなどではハート形のチョコやらクッキーやらが並んでいます。そしてチョコというよりも、ピンクや赤といった色でバレンタインを表現している印象です。(普通のバタークッキーにピンクや赤いデコレーションがされていたりとか!)
なので、日本ほどチョコを見かけません。
日本ではデパートではチョコ売り合戦、レストランやカフェでは必ずバレンタイン限定メニュー、手作りチョコキットがいたるところに作られ、バレンタインに関する商品が街中に溢れています。
でも、アメリカではあまり「チョコ」というよりかは、大切な人に感謝を伝える日なので日本ほど特別感がありません。
まして、私の大学では中間テストのシーズン。
イベントを楽しむ余裕がない人はかなりいます(笑)
そんなわけで、チョコ好きの私にとっては日本のバレンタインが少し恋しかったり(笑)
でも、太らなくていいですね!!(寮でチョコフォンデュのイベントありましたけど。もちろん食べましたけど。)
日本の友人たちの手作りチョコの写真やバレンタイン限定メニューを見ては良いな~と。
でも、日本ではビジネスが優先されていて「感謝を伝える」という本来の意味が薄れてしまっている気がします。
友チョコも、義理チョコも本当は感謝を伝えるため。
でも、いつの間にか料理の腕だったり、どれだけ時間をかけるかだったり、何だか小手先の部分ばかりに焦点があたってしまっています。
それによって、どれほど多くの女性がこのシーズンに苦しんでいることか…。
バレンタインはみんなが心あたたまる日なのに、いつからか準備や自分に対する評価だったりが気になって重荷なイベントになってしまいました。(男性にとっては最高だと思いますが)
それでもこの慣習がやめられないのは上手く盛り立てる企業と、美味しいチョコと、やっぱり自分で作ったら大変だけどもらえると嬉しいチョコの存在でしょうか。
来年はきっと日本でバレンタインを過ごします。
その時も、「感謝を伝える」
そのバレンタインの本質を忘れないようにしたいと思います。
追記ですが、私も友人からチョコをもらいました。
やっぱり何かもらえるってとっても嬉しいなと。
そして、友人たちにネスレのお得パックのハートチョコを配ったらめっちゃ喜ばれた!大事なのはものではなくて、伝えようとする気持ちなんですね。
チョコを配ると、それをきっかけに会話もはずむし、やっぱり素敵な文化だなあと思いました。
突然の料理欲
なんだか最近とっても料理がしたいのです。
私が住んでいる量はカフェテリアがあり、毎日3食すべてそこで出されます。
留学生にとっては料理をする必要がないのでまるで夢のような場所かもしれません。
カフェテリアで出てくるものはベーシックなものばかりで、お世辞にもおいしいとはあまり言えませんが、なんでもすぐ美味しいと感じる私にとって不満は全くなく、結構食事は楽しみにしていたりします。(これはかなりレアケース。みんなご飯には文句言っている(笑))
でもなぜか最近無償に料理がしたいのです。
今日日本はバレンタインですよね。
こちらは時差の関係でまだですが、バレンタインに合わせて私もブラウニーやチョコを作ってみたのです。
これがこっちでの初めての料理。
といってもキッチンがないので、使えるのは電子レンジと冷蔵庫だけ。包丁もまな板
もありません。
そこでシリコンのケースを購入し、材料を最小限に抑えてつくってみました。クックパッド素晴らしい大好き。
そこでわかったことは、電子レンジと冷蔵庫があれば料理が出来るということ。
今まで鍋も火もないし材料もないし料理をあきらめていました。
しかし、頭を働かせてやればできるのだなと。
でも、カフェテリアにかなりの代金を貢いでいるのでわざわざ自分で材料を買って時間をかけて料理をするのも、忙しい留学生活ではいかがなものなんだろう、、、
そんな葛藤があります。
でも、最近食に対する興味がむくむく湧き上がってきていて、作りたい欲ばっかり(笑)
気が付いたらクックパッドで電子レンジで作れる日本料理やお菓子を調べまくっているのです。
そんな時間がもったいないことは百も承知ですが、今まで肉じゃがなんて食べれない、と思っていたけれど作れるかもしれない、そんな希望が見えたことは大きいのです。
カフェテリアのご飯で日本食が出ることはまずなく、味付けはいつもとても濃い。
飽きたわけではありませんが、作れるというだけでわくわくします。
そしてクックパッドや様々なレシピを検索していて思ったこと。
日本では当たり前に手に入る食材が、こちらでは全く手に入らない。
よく「簡単!」「時短!」「混ぜるだけ!」
そんなうたい文句のレシピが溢れています。
でも、これが出来るのは適した調味料と材料があるから。
味付けはめんつゆ、白だしだけ混ぜればOK
アメリカでは出来ないのです。
日本では簡単なものが簡単じゃない。
私が唯一持っている調味料は醤油と砂糖。
和食で使われるみりん・お酢・酒・しょうが・めんつゆ・だし・ポン酢・鶏がらスープの素などはないのです。もちろん探せばありますが、手間もお金もかかります。
さらにヘルシー食材とされるおからや野菜でいうともやし・大根・きゅうりといった食材はなかなか手に入りません。
採れる食材も、食文化も異なる地で日本とまったく同じものを再現することにはハードルがあります。
薄切り肉もない。(個人のお肉屋さんで注文すればあります)
野菜もない。
調味料もない。
菜箸だって竹串だってない。
値段も違う。
クックパッドを眺めていてかなり文化の違いを感じました。
そしてないものを嘆いていても仕方がないなと。
アメリカにいるからこそ手に入る食材はたっくさんありますし、日本とは異なる調味料もたくさんあります。
やっぱり日本のご飯を再現したいけど(笑)、アメリカの食材でうまくやっていくのも楽しいかもしれません。
そしてあるものの中でどうやって日本のものに近づけるのか。
そんなことに頭を巡らすのもとても楽しい。
要するに、料理のことを考えるのがとても楽しいのです。
そして異なる国で暮らすということは、ないことを嘆くのではなく、あるもののなかで知恵を絞って応用して適応していく。
そしてどうしてそれがないのか、その代わりに何があるのか、どう違うのか。そんなアンテナを張ることが大事なのだと思います。
そうやってアンテナを張っていれば、他の同じ立場の人の手助けにもなるし、文化の交流にもなるし、ビジネスチャンスにだってなるかも!?そして、何よりたくさんのことが知れて世界が広がります。
留学でしか体験できないことだなあ。
もう半分をきってしまった留学を、大切にしたいです。